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◎養蚕県の歴史を後世に 移りゆく時の流れとはいえ、目まぐるしく変わりゆく世の中に、昭和一けたも前半の私などは、とてもついていけないものがあります。 平成十年に県教育委員会によって、各地区にうずもれている、また伝えられているものを掘り起こして、上州の仕事唄うたとして後世に残すべく、ビデオテープによる保存事業が始められ、川場村からは明治のころから唄い継がれてきた「繭かき唄」が選ばれました。 当時、お蚕を飼っておられた萩室地区の小林市太郎さんがご協力くださって、雅蚕から上じょうぞく蔟、繭かきまでを、作業とともに収録していただき、「繭かき唄」を唄いながら繭かきを実演いたしました。 平成十三年十一月三日、本県を会場に「国民文化祭・ぐんま2001」が開催されました。オープニングセレモニーでは、映画監督の小栗康平さんが「いのち」をテーマに、全国一の養蚕王国を誇った群馬の蚕を取り上げて紹介してくださいました。 小栗監督に川場村の「繭かき唄」が推奨され、板倉町の「麦打ち唄」とともに作業唄に選ばれたわけでして、皇太子殿下がご覧になる中、降りしきる雨にもめげず、唄いながら演じました。 かつて、全国一を誇った養蚕も、現在は蚕を飼育する人が減少し、農家の経営も果樹、野菜と多岐にわたっています。時代の変化とはいえ、蚕とともに生きた時代の者としては、寂しさを感じます。冬が過ぎ、春が終わり、農家にとって最初の現金収入が蚕であったころは、ほとんどの家が多かれ少なかれ、養蚕あっての生活であったと記憶しております。 蚕のザワザワと桑を喰はむ音が雨の音のように聞こえ、蚕の時季には何時も「蚕」「蚕」で明け暮れていた母の姿が、子供心に焼き付いています。大きな養蚕農家へ母や近所の女性たちが手伝いに行き、繭かきをするそばで、手伝いはまね事の子供たちが、繭をかいた後のまぶしの山に二階から飛び降りたり、周りで騒いだりして遊んだのが昨日のことのように思い出されます。 単調な仕事の中で眠気ざましに唄っていたのであろう、今は亡き母たちが唄った「繭かき唄」。唄の文句は定かではありませんでしたが、メロディーだけは、今も頭の中に染み込んでおります。 「繭かき唄」の中の一節に「蚕三十日は来るなと言うに、来たり泣いたり泣かせたり」というのがあります。掃き立てから上蔟までの間は、蚕が第一で「お蚕様」と呼ばれ、大切に扱われ、朝早くから夜中まで蚕とともにの生活であった母たち。家庭の経済を支える唯一の収入源であった養蚕、現在の発展の過程であった蚕が消え去ることなく、また盛り返すことはできないものか、と心から願っております。 養蚕県・群馬の歴史を後世に伝えるものとして「繭かき唄」に託して、仲間とともに頑張っていきたいと願っております。 (上毛新聞 2003年12月23日掲載) |