視点 オピニオン21
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関東学園大学助教授 高橋 進さん(足利市堀込町)

【略歴】東京学芸大卒。同大学院教育学研究科修士課程終了。日本体育学会、日本武道会などに所属。全日本柔道連盟専門委員で、田村亮子選手のトレーニングドクターを務めた。

武道的な心



◎日本人が育んだ理想型

 「交際女性の4歳長男を虐待、死なす…容疑の高3逮捕」。新聞の見出しを見るだけでも、何とも言い難い事件が続く。日本人のモラルや社会常識は、どこに消え去っていくのだろうか。私だけでなく、このように日本社会を憂える方も多いのではなかろうか。特に、死に対する畏い敬けいの念など全く感じられないような残虐な事件が後を絶たないのはなぜだろうか。

 私は、小学三年生から柔道をはじめ、三十四年の間、柔道を愛好し続けてきた。下手の横好きではあったが、素晴らしい恩師に巡り合うことができ、今では、自己の人格陶とう冶やにとってなくてはならないものとなっている。ご存知であろうが、柔道は相手を投げ、ぐうの音も出させないほどに抑え込み、時には首を絞め、腕を挫くじくといったように、見方を変えれば、残酷ともいえる運動文化である。しかしながら、前述した現社会の残酷さとは、質も意味も違っていることは自明の理。それは、柔道の修行を通して、自らのあるいは人の限界を知り得るからである。

 人を投げる、あるいは抑えることの困難さは、確実に「体力をつけなければならない」「力学的理解を深めなくては」「悔しい、もっと努力をしなければ」などといった感情や思考を育はぐくむ。しかしながら、それ以上に自分の弱さ、いや人の弱さを理解することになる。そして、その弱い自分を相手にしてくれている師や先輩に対する感謝の気持ちが、知らず知らずに芽生えてくるのも紛れもない事実である。

 柔道を含めて、武道全般が教育的であるといわれる所ゆ以えんは、既述したような正しい自己理解と他者理解の涵かん養ようにある。しかしながら、私の辿たどってきた柔道も、他の武道もみなそうであるが、一様にその稽けい古こは厳しい。何もしないで、いや極端な言い方をすれば、戦わなくして何も生まれない。相手と真剣に対たい峙じすることで、ある時には、いや応なしに自己を、相手を理解させられる。また、ある時には、戦い抜いて始めて自己を知り、相手を知る。相手の尊重と自己への慈しみは、真しん摯しな戦いの結果である。

 冒頭では、あまりにも悲観的な表現で日本社会のパラドックスを嘆いたが、社会的認知はないものの、武道ルネッサンスが着実に進行している事実も垣間見ることができる。と言うのも、若年層の武道人口の増加である。統計的にその有意性を確証したわけではないが、幼稚園児を含め、柔道や合気道、空手を習う児童・生徒は、確かに後を絶たない。私は、講道館(柔道のメッカ)で実際に十九年間指導員をさせていただいているが、ここ数年の少年部(幼稚園年長―小学校六年生)への加入数はうなぎ上り。私の指導している土曜日は、週休二日も相まってか、百数十人に及ぶ日も少なくない。特に、幼少の修行生は父母同伴で来館するわけだが、この父母が柔道の価値を認めていなければ、当然このような現象は起きないだろう。

 いずれにせよ、日本社会は大きな歪ひずみの渦中にあり、社会変革が余儀なくされはじめているのは周知のとおり。日本の生んだ運動文化である武道が、より市民権を得て、その価値と機能を十分に果たす日も近いと信じてやまない。武道的な心は、心を大事にしてきた日本人の歴史・文化が育んだ理想型である。

(上毛新聞 2003年12月15日掲載)