視点 オピニオン21 |
■raijinトップ ■上毛新聞ニュース |
|
|
◎魚病専門とする契機に 原爆投下から十数年経過した長崎に大学生として滞在し、一番驚いたことは校舎が木造のバラックで、当時、げた履きが大半だった学生たちは正門前で教職員の監視のもと、ズックに履き替えざるを得ない状態であった。 縁あって父の同業者(歯科医)の家にお世話になったが、たまたまその方の兄が漁業協同組合の理事をしており、これからは「つくる漁業になるであろう」との助言で、増殖学科を専攻することにした。当時、全学部合わせても四百五十人くらい、特に硬式野球部に入部したため、他学部に多くの友達ができたことは今でも財産の一つになっている。 授業は教養科目(語学を除き)を一年間で履修しなければならず、月曜から土曜日まで休む時間もないスケジュールであったが、小学校低学年のころ、原爆投下で受けたひどい火傷の痕あとを残した学生を見るにつけ、心が痛む思いをしたものである。現在も世界のどこかでいざこざが絶えないが、あまり益のないことだと痛感している。 二年生になり、早々と専門の講座探しのため、まず野球部の先輩がすでについていた教授の所に行ったところ「君は何ができるか」「はい、野球ができます」「どう見てもスポーツができるようには見えないが」「実は今日、裏の工業高校と練習試合をしますが、教室から見えますよ」「そうか」などのやり取りがあり、その後、本当にグランドまで来られたとは全然知らなかった。試合終了後、教室に行ったところ、「君は投手か、さっき見てきたよ」と言われたのには本当に驚いた。あれこれ話しているうちに「お前はマウンドに登ると人が変わるな」と感心していた。その時は、教授(道津善衛博士)がハゼの大家だとは、まだ全然知らなかった。 その夏休み、「どこか実習に行きたいのですが、紹介していただけますか」とお願いしたところ、岡山県水産試験場を紹介してくださった。ここでの一カ月間が水産分野で働くスタートになったのである。一応、寮生活で東大から来ていたY君と一緒だったが、彼の恩師にあたる先生と二十年後、同じ仕事をすることになり、不思議な縁もあるものだと感心している。そして、実習の毎日が新しいことずくめで、瀬戸内海の調査も船で一週間連続、流れ藻の下に付く魚の仔し・稚魚すくい、アサクサノリの培養、クルマエビの養殖と、本当に大変な仕事の連続で、有意義な一カ月であったと今でも感謝の念で一杯である。 当時の星野暹場長はすでに他界されているが、先見の明のある方で、実習の講評時「君は育種に関しては十分こなせると思う、これからは魚の病気が大切な仕事になる、機会があったらぜひ挑戦してみるとよい」と言われ、魚病という単語を初めて聞いた。学部ではこのような講義もなく、食品微生物が少しあるだけの時代なので奇異に感じていたが、魚病分野が専門になろうとは想像だにしなかった。この方にもその後、群馬で何度かお会いでき、大変喜ばれていた。これらのことと仕事のかかわりを、紙面が許す限り詳しく述べてみたい。 (上毛新聞 2003年12月9日掲載) |