視点 オピニオン21
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大紀デザイン社長 大木 紀元さん(東京都品川区)

【略歴】高崎高、武蔵野美術大卒。大学在学中に「ダッコちゃん」を創作し、大ブームをつくる。以来、多くのヒット商品や事業企画を成功させる。県マーケティングアドバイザー、日本ペンクラブ会員。

ふるさと望景



◎遠きにありて思うもの?

 今から五年ほど前のこと、西暦二○○○年にわがふるさと高崎が市制百年を迎えるので、ふるさとの仕事を手伝えとの要請があり、そのお手伝いをすることとなった。

 その時点で立てられていた企画の多くは、余よ そ所で良かったという理由で採用された既製催事で、高崎でなければというこだわりの企画でないものが大半であった。このため高崎からの情報発信で、しかも一過性のイベントではなく市民を巻き込む文化性の高いものをということで、昭和の初め、ナチスの手から逃れ日本にやってきたドイツの建築家ブルーノ・タウトの高崎での活動と市民との交流を、テレビによるドキュメントで全国に投げかけてみたいという企画を立てた。

 製作費から出演協力まで多くの方々のご支援を得て、市制百年の二○○○年十一月二十三日、『知のDNA 夢ひかる刻(とき)』のタイトルで全国放送が実現した。

 その製作過程で、タウトが寓ぐう居きょとした少林寺達磨寺の一隅にある洗心亭にご案内すると、一様に六畳と四畳半二間のつつましい住環境に驚かれた(テレビで見た方々からも多くの反響あり)。高崎郊外の地がタウトのふるさとに似ていたから、あるいはタウトは「方丈記」などを読んでいたから、亡命の身であったから、等々推量がなされているが、本業の建築家の仕事もなく、収入も十分でなく、言葉も通じない不自由だらけの異郷で、タウトの本心はいかがであったのか。「少林寺バンザイ」「高崎バンザイ」と列車の窓から叫びながらトルコに旅立ったタウト。製作の過程で随分議論されたが、結論は出なかった。

 同郷の偉人、萩原朔太郎は、自著の中で次のように書いている。「郷土! いま遠く郷土を望景すれば、万感胸に迫つてくる。かなしき郷土よ。人々は私に情なくして、いつも白い眼でにらんでゐた。単に私が無職であり、もしくは変人であるといふ理由をもつて、あはれな詩人を嘲辱し、私の背後から唾をかけた。『あすこに白痴が歩いて行く。』さう言つて人々が舌を出した」と。

 朔太郎にとって郷土(前橋)は好ましい街ではなかったようだ。また、高崎出身の世界的ミュージシャンのサクセスストーリーの中で、「高崎という街には、出る釘は打たれるといった空気があった。…中学生にもなるとその空気はたまらなく窮屈に変わる。街中から活気と情熱を奪い取られた死んだような街…」と書かれている(ちなみに、打たれるのは、釘くぎではなくて杭くいだと思うが)。

 朔太郎の大正も、ミュージシャンの昭和も、田舎町はどこでも五十歩百歩で、天下に名をなす異才や鬼才ははみ出しと見られ、どうしても打たれるようになるのであろうか。

 郷土の偉人、新島襄、内村鑑三、土屋文明、山口薫、福沢一郎、分部順二…。この人たちも故郷に帰らなかったが、故郷への思いはいかがであったのか。生前に聞き忘れたので、あの世で会えたら伺うかがってみたい。ふるさとまとめて花いちもんめ…。

(上毛新聞 2003年11月22日掲載)