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◎淳真で清貧の生涯貫く 道元は良寛にとって生涯にわたって敬慕してやまない永遠の師でありました。道元には『正しょうぼう法眼 げんぞう蔵』があります。『正法眼蔵』は道元没後久しく秘匿され顧みられませんでしたが、大乗寺第二十六世月げっ舟しゅうそう宗胡 こに至ってその重要性が説かれて以来研究が盛んになり、良寛が修行した円通寺においても盛んに勉強されていたようです。 良寛は師の国仙を通じて道元の宗教を知り『正法眼蔵』や『法華経』を随分深く読み込んで自らの血肉としました。「法ほっけ華転てん・法ほっけ華讃さん」、「読えい永へいろく平録をよむ」、「僧そうぎゃ伽」、「 しょうどう唱道詞し」等はその成果でした。 良寛の宗教的な詩は難解でよく分かりませんが、当時の僧侶の在り方に対してかなり痛烈な批判をしております。当時の僧の姿があまりにも道元の教えと隔絶していることを指摘し、僧本来の在り方、生き方を道元の教え、すなわち、「仏祖本来の正法」にまで立ち返って正すべきであると述べています。宗教的には自分にも他の僧侶にも大変厳しい人であることが分かります。 また、良寛はその生涯にわたって常じょうふ不軽ぎょうぼ菩薩さつの行を実践した人でした。 前述の通り道元同様良寛も法華経を敬けい仰ぎょうした人です。法華讃の中で、私の注意を引いたのは常じょうふ不軽ぎょうぼ菩薩さつぼん品の讃でした。私はこの常不軽菩薩が良寛を知る上で大変重要な位置を占めると考えています。常不軽菩薩について調べてみますと、大変ユニークな菩薩で(経文等の)読どくず誦を一切行わず、常にただ礼らいはい拝を行じ、何人に向かっても「我深く汝なんじ等を敬うやまう。敢あえて きょうまん軽慢せず、所以いかん、汝等皆菩薩の道を行じて常に作さぶつ仏することを得うべきが故に」といい、杖じょうぼく木瓦がせき石、悪あっこう口罵 ば り詈等の如いか何なる迫害にあっても之を厭いとわず終始礼拝を行じ、まさに命の終わらんとする時、 ろっこんしょう六根清浄じょうを得、さらに寿命を増ぞうえき益して法華経を説いたと伝えられています。 良寛は常不軽菩薩に巡り合いました。生まれついての性質の上にこの菩薩にゆきあたって、彼の心は一層深められ高められたと思います。 良寛は以後生涯を通じて常不軽菩薩の行を自らの行とし、誰に対しても公正・公平な態度を貫きました。僧にもあらず俗にもあらずの生活態度はこの菩薩に対する深い帰依からきていると考えます。 常不軽菩薩も良寛も無理解な人たちからつらい目に遭わされています。 こんな生き方が人々から認められるには長い年月を必要とします。良寛も帰郷後、受け入れられるまで十年余を費やしています。でも、この生き方を貫いた良寛の心の強さに感動せずにはいられません。 良寛は修行後の人生を故郷で一托たくはつ鉢僧として送っています。この生き方こそ良寛の宗教観の顕あらわれであると思います。彼は客観的に見ても、その宗教的境地において江戸時代屈指の禅僧であることは間違いありません。しかし、僧の位から言えば和尚位の次の首しゅそ座で終わった人でした。ここで彼は意識的に世間的に認められる僧としての名利から離れてしまうのです。『正法眼蔵』に出会い、大だいに而宗そう龍りゅうとの相そうけん見を果たした後、僧としての栄進を厭いとい、「仏祖伝来の正法」並びに「貧ひんの家か風ふう」を護持し、淳じゅんしん真な心で常に温かい眼まなざ差しを周囲に送りつつ、自らが在る一いちぐう隅を照らし続けて沙しゃもん門良寛としてその生涯を終えたのです。 (上毛新聞 2003年11月6日掲載) |