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桐生ふろしきの会会員 大槻 圓次さん(桐生市東)

【略歴】神戸高商卒。5年間の商社勤務の後、帰郷して家業の買い継ぎ商に携わって以来、5年前に佐啓産業を退社するまで、一貫して織物関連の現場で働いてきた。わたらせプロバスクラブ会員。

告別式



◎家族に希望を伝えたい

 それは素晴らしい告別式だった。弔辞・弔電の披露が済み、喪主がお礼の挨あいさつ拶中に突然歌い出したのだ。逝った父君の愛唱していた桐生音頭を、それこそ魂をしぼり出すかのように三番まで熱唱したのだ。弔問客は一瞬唖あ然としたが、しばらくしてその父を思う心の一いちず途さにうたれ、いかにも鎮魂歌にふさわしいその歌を感動しながらうなずき合っていた。心に沁しみる告別式だった。

 ひとは例外なく死を迎える。そして弔う儀式が行われる。神式もキリスト教式もあるが、概おおむね仏教式で行われる。寺でのものは少なくなって、専らメモリアルホールなどといわれる所で通夜も告別式も行われるようになった。

 ひと昔前には、となり組で葬儀を差配、分担して送り出すことが常識だったが、こんなに老齢化、少子化、核家族化が進んではホールがあるのがありがたい。

 大きなホールで整然と、流れるように司会は進んで焼香の列は絶えない。時には大勢のため「お焼香は一回だけに」とかの指示も飛ぶ。弔問客は勿もちろん論全員礼装で粛々と進み、心から哀悼の香をたき、香典返しを受ける。近ごろは通夜も同じ形式で行われるので、葬式を二度するほどの丁寧さである。

 にも拘かかわらず、小生のひがみ根性の故なのか、何かが足りない気分なのだ。あるいは足りすぎている故か。

 昔の野辺送り的なしみじみと故人を悼みつつ、家族親しんせき戚とごくごく親しい友人たちだけでしめやかに送ったことがなつかしいのはなぜだろうか。

 何しろ一生に一度の最後のイベント、しかもそれを他人まかせで行うわけなので(いやごく稀まれには自分で自分の葬儀をする人もいるようだが)できれば元気なうちに、家族には自分の希望を述べておきたいものだ。

 勝手ながら自分なりにはこう思う。小生の通夜は家族だけの密葬がよろしい。ごくごく親しい友人が駆けつけてくれればなおうれしいが、告別式においで願えれば十分。男性は黒いスーツだろうが、女性にはきもの姿でお願いしたい。きものの礼装は男女とも黒紋付きだが、明治末期あたりから女性の紋付きの裾すそに色模様を入れるようになって以来、黒紋付きは専ら喪に用いられて喪服と呼ばれているが、お持ちの方が近ごろほとんど着てくれなくなった。五十年きものに関かかわってきた小生としては大変悲しいことなのだ。

 来ていただいた方へ粗供養(志)を差し上げるのは当然だが、香典包みを頂ちょうだい戴した向きには、当地の習慣に従って香典返しをさせていただきたい。香典返しは、残された者が故人の供養に差し上げるものなので「辞退」とある方々もぜひ受け取っていただきたいと思う。

 かつて、故人がとても好んでいたものでと紅茶缶をお返しいただいたり、好きだったお酒をと頂いたりしてそのことを知っていただけにいたく感激したことがある。小生の場合も何か愛用のものをお返ししてくれればと思っている。

 いつかは分からぬが、必ず来るその日を空から見てみたいような気がする。

(上毛新聞 2003年11月5日掲載)