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郷土史研究家 大塚 政義さん(富岡市中沢)

【略歴】法政大学卒。県教育史編さん委員、文化財調査委員などを歴任。水戸天狗党と下仁田戦争、国定忠治、天野八郎などの歴史研究、執筆に取り組み、1984年度上毛出版文化賞を受賞した。

若き吉井藩士の墓



◎土地の人が手厚く供養

 明治維新は、多くの人々の貴重な犠牲の上に成り立っている。薩摩、長州、土佐、会津、水戸などの大藩の志士たちの活躍が歴史の舞台に華々しく登場しているが、各地の小藩の名もなき藩士たちも維新の礎になっている。

 上州においても、官軍と会津藩との間に局地戦が展開されている。戸倉、三国戦争である。

 慶応四年四月二十四日、三国峠の戦いが開始された。この戦いは、官軍の東征軍の指揮下に入った前橋藩、高崎藩、伊勢崎藩、沼田藩、安中藩、小幡藩、吉井藩らと下野の佐野藩、足利藩の総勢千四百五十人ほどが、三国街道の永井宿に乗り込んだ。三国峠や戸倉方面に出没する会津藩兵の討伐にやって来たのである。

 三国峠の戦いが終わり、諸藩の兵士は五月一日に沼田に引き上げた。このころ、戸倉方面にも会津兵が出没するというので、前橋、高崎、沼田、安中、吉井の各藩は休息するいと間なく、五月七日、沼田を発(た)って戸倉方面に向かった。八日に官軍先遣隊は片品村の大円寺に入り、ここを本営として尾瀬、戸倉方面の会津軍の襲撃に備えた。会津軍は一向に姿を見せなかった。やがて官軍も気が緩み始めた五月二十一日、突如、会津兵が山中を警戒中の官軍を襲撃し、吉井藩の伊東長三郎と足利藩の今井弁輔が戦死した。

 この日、足利、沼田、吉井勢六十人ほどが先鋒(せんぽう)として戸倉鎮守前に陣を張っていたところ、朝の八時ごろ、会津兵が二方向より小銃を乱射しながら不意に襲ってきた。足利勢は応戦し、沼田勢は土出村へ退却した。全くの奇襲で官軍は狼狽(ろうばい)した。会津兵はこの奇襲の後、大円寺の官軍が出兵する前に戸倉の村を焼き払い、いずこともなく撤退し、姿をくらましてしまった。会津兵の戦法は三国峠の戦いと異なり、全くのゲリラ戦であった。この奇襲で戦死した官軍は二人であるが、その一人、吉井藩士・伊東長三郎の墓を数年前に訪ねてみた。

 大円寺のある土出付近で、道端のおばあさんに聞いた。「土出はこの辺りですか」「そうですよ、どこに行くのですか」「大円寺に行きたいのですが」「ああ大円寺、この道を真っすぐ行くと、カーブミラーがあるよ。その横を行くと大円寺ですよ」

 大円寺に着くと、住職は不在だった。寺内にある墓石から伊東長三郎の文字を読み取ろうと、あちらこちらの墓石を探し回った。すると、先ほどのおばあさんがやって来て「何を探しているのかね」と言う。「吉井藩士の伊東長三郎の墓を探しているのだが、知っていますか」「ああ、吉井様のお墓、知っているよ。あの丘の上の囲いの中がそうだよ。二十一日にお祭りがあるんだよ」と親切に教えてくれた。辺りが薄暗くなりかけており、本当に助かった。

 囲いの中に墓石があり、「吉井藩伊東長三郎藤原長常墓 慶応戉辰 五月廿一日戦死 行年二十七歳」と墓石に刻まれてある。おばあさんの言葉の中に「吉井様」とあったが、土地の人は今でも伊東長三郎が戦死した五月二十一日にお祭りをして供養をしているのである。

 下仁田戦争で戦死した水戸天狗党の野村丑之助十三歳、三国峠の戦いで戦死した会津白虎隊の町野久吉十七歳、また、戸倉の戦いで戦死した伊東長三郎とみな手厚く、その土地土地で供養されている。歴史とは得てして、こうした人たちを見過ごしていくものであるが、その土地の人々の心の中に今でも生きているのである。これもまた歴史である。

(上毛新聞 2003年10月13日掲載)