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◎得たい無垢な純真さ 人生百年といっても、もう七割がた生きてきた。「人生五十年」といわれた時代もあった。「人生二十五年」説が幅を利かせたのは、若者の多くが召された六十年ほど前の戦時中のことだった。 老人というものは、昔のことばかり言うと詰(なじ)られる。過去は長く、未来は不明だからであろう。かくいう私も、老人の仲間入りをした。だが、老人と表現せず、加齢世代と言い換えて晩節の心境を語ってみたい。 通り過ぎたことは、いとも簡単に脳裏にある。学齢前のこと、義務教育時代、在京の青春時代。常に青空を見上げていた。一生懸命生きてきたという自負もある。元気だった。 自分の主張も、他人に寄って曲げられたこともなかった気がする。背伸びせず、能力なりに生きてきたからだろうか。野望も抱かず大欲も張らず、それなりにやってきた。つらつら来し方に思いを馳(は)せるとき、抵抗の少ない人生だったと実感できる。平凡だったのだ。 体力の劣化を知った数年前から、テレビ体操を実行した。体の屈伸の心地よさ、不惑の年から始めた水泳も続けている。スポーツ好きではなかったのに不思議である。多分、長生きがしたいという潜在的欲望が生まれてきたのかも。 語学番組にも相変わらずの好奇心がある。惚(ぼ)けたくない―という同類の意識であろう。日記を欠かさない。手紙の返事も素早く。評判の本は読む。それくらいは心掛ける。 周囲に高齢者は少なくなかったが、高齢者に対する知識がなかったことを反省せざるを得ない。彼らは「老人」としての悲哀も私に教えてくれなかったし、体の痛みを見せずに泰然と生きていたようだった。迂闊(うかつ)だった私。 加齢世代には「別れ」の苦しさも頻繁である。「人」との別れだけではない。「記憶喪失」も恐ろしい。真底深く刻まれた思い出すらも消え失せるのだ。感激したさまざまなことも、やがては茫洋(ぼうよう)としてくる。蓄えた知識も雲散霧消する。人の顔と名前が一致しない、など悲しい喜劇である。 さて、残る三割の余世はいかにいきるか。いよいよ正念場に到達した今、七割の人生に対しての猛省としようか。余力を傾注して、猛省とともに猛省に至る事柄を修復しなくてはならない。 時間は限られている。気張る力も弱くなった。今生の人々に、異界に去った人々に、袖振り合った、すべての人々に心大きく広げて感謝し、心ならずも些細(ささい)なことで誤解し、争った人たちにも許しを乞(こ)いたい。また、故意に傷つけ合った人たちにも、度量をもって詫(わ)びたい。 いわんや、恩愛を持って接してくれた人たちには、涙をもってお礼申し上げたい。 最後に、この世にあって為(な)すべきことは、かつて清流を誇った碓氷川の透明さと、浅間嶺を覆う深雪の白さを頂いて、わが心根を洗い清め、誕生時の無垢(むく)な純真さを得たいものである。 (上毛新聞 2003年10月12日掲載) |