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◎無邪気で美しい交流 淳真(じゅんしん)な心とひたむきな心が融(と)けあって美しい花を咲かせました。 貞心尼(ていしんに)にとって良寛との巡り合いは人生の師との邂逅(かいこう)でありました。良寛にとっても生涯最後の輝きの場を与えられることになりました。 貞心尼は寛政十(一七九八)年、長岡藩士奥村五兵衛の娘として生まれました。幼名マス。上州良寛会会長市川忠夫著『上州と良寛』(みやま文庫)によれば、父は群馬県出身の人だそうです。十七歳ころ、北魚沼郡小出の医師、関長温のもとに稼ぎます。しかし、五年くらいで離縁となり実家に帰ります。 文政三(一八二〇)年、二十三歳の時、柏崎、下宿、閻王寺の眠龍尼、心龍尼姉妹の弟子になり仏道の修行を始めます。五年ほどして長岡在の閻魔堂(えんまどう)へ移ります。 貞心尼が初めて良寛を訪れたのは、文政十(一八二七)年の秋のことでした。良寛が七十歳、貞心尼が三十歳の秋のことでした。仏道に入って七年余、良寛のことは十分耳にしていたと思います。貞心尼にとっては憧(あこが)れの人であったと思います。 良寛は彼の健康を気遣った周囲の人のすすめによって、乙子神社の草庵から、島崎の木村家の庵室に移ったばかりでした。人生の黄昏(たそがれ)を迎えようとしていたのでした。しかし、良寛は体は弱っていましたが、書も詩歌も生涯最高の境地に達し、落日の黄金色の光芒(こうぼう)の中に身を置いていたときでした。そんなときに貞心尼が訪れたのでした。貞心尼は中肉中背、色白で、目元の凛(りん)とした美人であったと後に弟子入りした尼憎が語っていたそうです。その上、和歌を嗜(たしな)み、熱心な求道者でもありました。良寛の光を受けて貞心尼はたちまちの内に輝き出します。 貞心尼は手鞠(てまり)に添えて歌を贈ります。『蓮の露』によれば、その時の歌は 師常に手まりもて遊び給う ときき奉りて これやこの仏の道に 遊びつつつくやつきせぬ みのりなるらむ 貞心 御かえし つきてみよひふみよいむな やここのとを十とおさめて またはじまるを 師 無邪気で美しい交流がこのようにして始まります。良寛の淳真な心に基づく詩情と童心が貞心尼の歌に輝きを与えます。文字どおり琴瑟(きんしつ)相和した贈答歌が数多く生まれます。しかし天はこの二人にそんなに長い時を与えてはくれませんでした。わずか四年ほどの交遊の後、天保二(一八三一)年正月七日、良寛は亡くなってしまいます。 後に、彼女は良寛の歌集を編んで『蓮の露』と名付け、師を偲(しの)ぶよすがとしています。内容は良寛の略伝、和歌百三十首、貞心尼の歌二十一首、その他俳句若干、戒語九十箇条がおさめられています。そして、これは私たちが良寛を知る上に貴重な資料になっています。また、後に前橋の龍海院第二十八世蔵雲和尚が良寛の詩を集めた『良寛道人遺稿』を刊行する際に幾たびも連絡を取り合い、貴重な資料を提供したことでも知られております。 山猫の手を離れたドングリが直に光を失ってしまったように、良寛を失った貞心尼は『蓮の露』以後、再びその輝きを復活させることはありませんでした。 貞心尼は明治五(一八七二)年二月十一日、柏崎の不求庵(ふきゅうあん)で七十五歳の生涯を閉じました。墓所は同地の洞雲寺(とううんじ)にあります。 (上毛新聞 2003年9月21日掲載) |