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郷土史研究家 大塚 政義さん(富岡市中沢)

【略歴】法政大学卒。県教育史編さん委員、文化財調査委員などを歴任。水戸天狗党と下仁田戦争、国定忠治、天野八郎などの歴史研究、執筆に取り組み、1984年度上毛出版文化賞を受賞した。

天野八郎



◎義に生き義に殉じる

 慶応四年三月十四日、勝海舟と西郷隆盛が江戸高輪の薩藩邸で会談し、江戸無血開城を決定した。すでに勝負は決していたのである。

 彰義隊の上野戦争は、たとえ負けることがわかっていても賊軍としての汚名を着せられようとも、徳川家の恩顧を受けた武士たちの誇りと命をかけた戦いだったのである。

 この戦いで、彰義隊の実質的なリーダーは上野国甘楽郡磐戸村(現南牧村)出身の天野八郎である。

 八郎は幼名を林太郎といい、十四歳の時、「人生七十古来まれなり」、こんな片田舎で朽ち果てるのは、男子たるものの本懐ではないと江戸へ旅立った。村では漢籍や書を医師林玄宗に学び、禅は黒瀧山不動寺の通梁(つうりょう)禅師のもとで修行した。江戸においては書を利根郡出身の生方鼎斎(ていさい)に学び、剣は幕末随一の使い手男谷精一郎に学んだ。男谷門下の五剣士の一人と称された。剣士の中には勝海舟の師匠島田虎之助もいる。

 ある時、村に帰ってみると、青年たちの風紀がたいへん乱れていた。みんな仲良く良い行いをして立派な人になろうと「堪忍講(かんにんこう)」を起こして盟約を結び、青年たちの教化に努めた。

 子どものころの逸話が残されている。ある日兄と遊びに行き帰ってくると、増水し濁流と化した川には、丸太を二、三本組んだだけの橋が今にも流れそうである。二人は立ちすくんだ。林太郎は「兄さんは家を継ぐ大切な体なんだからここで待っていてください。私が先に渡って大丈夫かどうか試してみるから」と言って橋の途中まで来ると、橋をゆすって「兄さん、大丈夫。渡っておいでよ」。

 彰義隊は渋沢成一郎や天野八郎が中心となり、旗本の二男、三男と諸隊の脱走兵などで構成した。慶喜の身辺警護と討薩を目的とし「徳川家の恩に報いる」と昼夜市中において官軍兵士と斬(き)り合いに及んだ。後に隊長の渋沢成一郎は去り、副隊長の天野八郎が指揮を執った。江戸町人に人気があり「情夫(いろ)に持つなら彰義隊」といわれた。

 官軍は五月十五日、総攻撃を開始した。立てこもる彰義隊は千人、官軍は三千人である。

 八郎は激戦が予想される黒門口に精鋭を率いて薩藩兵と対戦した。彰義隊は百人余りが一団となって門を開いて斬って出る。やがて官軍がアームストロング砲を撃ち込んでくるに及んで勝敗は決した。

 八郎は「徳川家の恩に報ずるのは今しかない、私と共に死のう」「ここは徳川家歴代の霊廟(れいびょう)がある。この場から逃げ出して、どこで生きていくつもりだ」と隊士たちを叱咤(しった)激励した。後、隠れ家を襲われ捕らわれた八郎は、獄中で同志が「おい息遺いが荒いぞ、しっかりしろ」と言うと「俺はひとあし先に行く」と言い残した。獄中で上野戦争のようすを『斃休録(へいきゅうろく)』に著した。辞世は「枯れ尾花 倒れてそよぎ止みにけり」。八郎が母に孝養を尽くしたことは有名である。生涯を通して「義に生き義に殉じた」。封印・印章にはすべて「義」の文字を使用している。

 移り行く時勢に背を向けて信念を貫いた、八郎の生き方も忘れてはなるまい。

(上毛新聞 2003年9月9日掲載)