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◎73件の旅館が受け入れ 先日、見知らぬ六人の老紳士の訪問を受けた。「私たちは戦時中、学童疎開で草津にお世話になった。草軽電鉄に乗って来たことが懐かしく、その線路跡を歩いてみたい」という。昭和十九年、二十年にわたり、一つの時代に「学童疎開」と呼ばれた大勢の人たちが草津の町を訪れていた。 学童疎開はアメリカ軍による本土爆撃に備え、昭和十九年六月三十日付の閣議決定による「学童疎開促進要綱」に基づき、国民学校初等科(現在の小学校)三年生から六年生の児童が対象となり、急きょ実施することになった。七月二十日には、実施区域を東京都のほか十二都市を指定し、おびただしく忙しい中を親元を離れ、学校ごとの集団疎開が実施された。 受け入れ側の草津町では、同年七月十五日付で「疎開学童受入方ニ関スル件」を各旅館に依頼した。「時局ノ緊迫化ニ伴ヒ帝都其ノ他ニ於ケル疎開ノ実施ハ相当強化サレツゝ有之候處本町ニ於テハ帝都学童七千名ノ疎開受入ヲナスベク其ノ筋ノ命ニ接シ其ノ指示ニ基キ貴殿方ニ於テハ○○名収容分相煩ハスコトニ相成候ニ付御了承ノ上本事業ノ為ニ格段ノ御協力ヲ与ヘラレ度此段御通知申上候」。 八月三十日、東京都淀橋区の淀橋第四国民学校をはじめとして、九月十一日までに、淀橋、戸塚、落合、大久保、天神の各国民学校の合わせて三千七百七十五人が草軽電鉄で新軽井沢駅から草津温泉駅までの五五・五キロを「カブト虫」の愛称で親しまれた「デキ十二型」の長いパンタグラフとL字型の機関車で草津に入った。急カーブが多く、時速二十―二十五キロのノロノロ運転。時折起こる脱線事故は、電車の下に枕木を差し入れ、梃子(てこ)の原理で乗客に手伝ってもらい、二分から五分ぐらいで復旧させ、何事もなかったように進んでいった。普段は、客車一両に貨物一両を付け、積み荷は硫黄が主に運ばれ、玩具のような軽便鉄道であった。 受け入れ側には、七十三軒の旅館が当たった。学校ごとに分宿した児童は、食料が逼迫(ひっぱく)する中、あらゆる物資が配給制度となり、食糧不足の生活を強いられた。蚤(のみ)や虱(しらみ)に苦しめられ、加えて慣れない薪(まき)運びや、炭背負いなどの勤労奉仕が行われたが、常に規則正しい集団生活が強いられていた。 正月には、少ないながらお雑煮で祝賀し、白根神社に初詣でした。書き初めには「草津に決戦の新春を迎ふ」「怒れ浅間練れ闘魂」「疎開の宿舎に士魂を練る」などと書かれていた。三月も上旬になると、六年生は卒業と進学のために疎開地から引き揚げ、三月十日の東京大空襲に遭遇された人たちもいたと聞く。五月に入ると、町には横須賀海軍病院の傷病兵が加わり、町の中は白衣の傷病兵と看護婦さん、疎開児童であふれていた。 終戦を迎えて十月になると、学童の数も減少し、八百六十三人を残すのみとなった。この年の四月、ただ一人で草軽電鉄、信越線、そして高崎で上越線に乗り換え、沼田中学に入学した。十二歳の時のことであった。 (上毛新聞 2003年8月10日掲載) |