視点 オピニオン21 |
■raijinトップ ■上毛新聞ニュース |
|
|
◎公平公正を貫く生活 十余年にわたる備中円通寺での修行を終えて帰郷した良寛は生涯明峰派大乗寺の流れをくむ国仙和尚譲りの正法禅を信奉し、名利を離れた貧の家風に殉じた人でもありました。 良寛は長岡藩主水野忠精(みずの・ただきよ)の招請に対して「焚(た)くほどは風がもてくる落ち葉かな」と答えて辞退したといわれています。これも衒(てら)いなど微塵(みじん)もなく、ごく自然に自らの心を表したので名君の誉れ高い水野忠精はそれを諒(りょう)としたのでしょう。それを知った蒲原地方の人々はますます良寛を敬慕したと思うのです。 下村湖人の作品に『次郎物語』があります。この中に「白鳥蘆花(ろか)に入る」という美しい言葉がありますが、良寛は後半世を蘆花の中で過ごした人でした。良寛には詩歌や書の才能があり、宗教的にも高い境地にあった人という意味では白鳥でした。本人は周囲の人々と同じく蘆花の生涯を送ったのですが。 けれども、蒲原地方の人々は良寛が白鳥であることを見抜いていました。それ故、それぞれが自らのできる支援を長期間にわたって続けました。 良寛の淳真(じゅんしん)な心は蘆花の花のような人々に守られて開花します。帰郷後十年ほど経て五合庵に定住すると、詩歌の勉強も書の勉強も本格的になります。良寛の勉強は時流にのったものではありませんでしたが、万葉集によった歌も、懐素(かいそ)に学んだ書もそれらを突き抜けて独自の境地を開いております。 武者小路実篤は、良寛について「良寛は書でも画でも、又詩でも和歌でも、実に自分の心境をそのままに表現しないではやまない人であった。あの時分あれくらい正直に、こだわらずに、自分の個性を徹底して純粋に生かし切れたことは、僕には不思議に思われるのだ。之は彼が何処までも自分に正直になれた男で、何処にも借り物がなかったからだと思われる」と『良寛』(筑摩書房刊=一九六○年)の中で述べています。 良寛の有力な支援者の一人である牧が花の庄屋、解良淑問(けら・しゅくもん)の子、栄重(よししげ)は良寛の逸話を集めた著書『良寛禅師奇話』の中に、次のように良寛のことを書いています。「良寛は痩(や)せて、背が高く、面長で切れ長の眼(め)をしていて、いつも穏やかで、坊さんらしくない人であった」 栄重は加えて、「偶々(たまたま)、家に泊まったりすると、自然に家の中に和気が充(み)ちて、家族の者が仲良くなり、清々(すがすが)しく感じました。取り分けてお説教したりする事もなく、竈(かまど)の火燃(ひも)しをしたり坐禅(ざぜん)をしたりしているのでした。話をしても道徳や学問臭いことには及ばず、自然に感化するといった感じであった」とも述べています。 良寛が、その七十四年にわたる生涯を貫いて蒲原地方の人々に実践してみせたのは「貴賤凡聖同一如(きせんぼんしょうどういつにょ)」の何人に対しても公正公平を貫く生活でした。 (上毛新聞 2003年7月23日掲載) |