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安中音訳ボランティアグループ「かけはし」会長
山賀 英子
さん
(安中市原市)

【略歴】安中高、早大卒。45年間市内英語塾で講師を務めたほか、私立・県立高校講師、豪・タスマニア州小学校日本語講師などを歴任。1999年に同グループの設立に参加、会長に就任。

戦中・戦後の教育



◎苦しみながら歩んだ道

 満州事変が始まった年、私は生まれた。日中戦争は小学校入学の前年、小学校四年の冬に太平洋戦争が勃発(ぼっぱつ)した。

 幼稚園時代には、十までは中国語で数えられたし、単純な英語の歌もうたっていた。小学校の名前も国民学校と改名されたころ、敵性語は禁止され、校庭では軍事教練の分列行進が行なわれた。

 高等女学校に入学したが、英語の授業はなく、ペンを鎌(かま)や鍬(くわ)に持ち替え、出征兵士の留守宅の農作業に行かされた。

 当時の大学生は学業半ばで出陣。上級生も「女子挺身(ていしん)隊」として軍需工場へ動員された。思春期、青年期の多くの人が学業から遠のいた時代だった。

 「欲しがりません、勝つまでは」と忍に耐え、「撃ちてし止まん」と、竹やり訓練に励んだ。大人たちも「ぜいたくは敵だ」と、宝飾品や金目の物は時の政府に供出した。

 女学校二年の真夏、敗戦で終った。泣いた、泣いた。信じられなかった敗戦であった。日本は世界中から「四等国」と揶揄(やゆ)された。「一億総ざんげ」という言葉も流行した。

 米国占領下、再び学制改革が行なわれ、六三三制となった。旧制女学校生は新制高等学校生として卒業し、四年制の新制大学に入学した。新制度の学生は、非力だとなじられた。

 「もはや戦後ではない」と言われたころ、大学を卒(お)えたが、就労の機会はなく、資格と専攻課目を生かして、“英語私塾”を開講した。戦中戦後生まれにとって、最も弱い課目は敵性語といわれた英語である。頭の中に常住する、この思いは向学心に結びついた。

 私塾は土、日曜日にまとめ、月曜に上京し金曜の夜帰郷した。米語と、その教育法であるミシガン・メソッドを学んだ。昼の空き時間は外国人に日本語を教えた。文化庁などで、この資格も取ったのである。

 昭和四十一年に最初の海外雄飛。一カ月半の短期留学だった。先進国のゆとりある優しさがうれしかった。

 三年後の六月末から九月にかけて、再び米国へ飛んだ。アポロが月に到着した時、東海岸の大学寮にいた。英語の武者修行が目的だったので、次は英国に行った。だが、散々な思い出が多い。道に迷ったり、面と向かって馬鹿(ばか)にされたり、赤面せざるを得ない英語を使っていたのだろう。臆面(おくめん)もなく欧州三カ国、東南アジア五カ国を予定通り、単独で英語と足で歩いたのである。

 五十五歳になった。人生に厭(あ)きがきた。日本語教師の資格と英語教育の経験を手土産に単身、豪州の南の小島に渡った。南極に一番近い島だそうだ。南半球の異文化のなか、再生の力を得た。

 私にとって、戦中、戦後教育の欠落の後遺症は否めない。苦しんだ一本道だった。まじめに歩み続けた道ながら、すでに日暮れも近い。一つの行程を通して、袖すり合わせた人たちの温情を思う時、じわっと幸福感が生まれてくる。

(上毛新聞 2003年7月15日掲載)