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◎三国峠で壮烈な戦死 久しぶりに会津若松の飯盛山にある白虎隊士の墓を訪れてみた。相変らず参詣客が多く、線香の煙が絶えない。 会津戦争において、藩主松平容保(かたもり)は、官軍は十万余の大軍であり、藩士が存分に働けるようにと、年齢によって朱雀、青龍、玄武、白虎に分けた。白虎隊は十六歳と十七歳の少年で編成されたが、身分によって、士中、寄合、足軽に分けられた。 戦況が危うくなり、容保自ら出馬して滝沢村本陣に本営を置き、全軍の士気を激ますことになり、その護衛の任に当てられたのが白虎隊士中二番隊の三十七人である。戸ノ口原で戦い敗れ、城下を見下ろす飯盛山に退却し、自刃したのは二十人(うち一人は蘇生=そせい)であった。 白虎隊というと、飯盛山で自刃した隊士があまりにも有名であるが、他の白虎隊士も戉辰戦争では、あちこちの戦いで戦死しているのである。群馬県内の戦いでも白虎隊士は奮戦し、その墓も県内にある。 十七歳の少年、白虎隊士町野久吉は慶応四年四月二十四日の未明、越後口三国峠の戦いで、前橋、高崎、吉井の各藩で編成された官軍千二百の陣地に大身の槍(やり)を振って単身突入し、阿修羅のごとく奮戦し、壮烈な戦死を遂げた。 久吉は、元治元年七月の長州軍と薩・会・幕連合軍が激突した蛤(はまぐり)御門の戦いで一番槍をあげた町野源之助の実弟で、同じく槍の達人であった。 越後口三国峠の戦いでは、実兄の軍奉行町野主水(源之助)とともに、三国峠を下りた三坂に軍を敷いて、官軍を迎え撃った。源之助を総大将に久吉は副大将で、会津藩兵はわずか四十余人であった。 久吉は紅顔の美少年で質実剛健、体躯(たいく)は堂々とし、あたりを威圧する感があった。槍術は大量に積み重ねた五斗入りの米俵を槍の穂先で自由自在にあしらい、後方に軽々と突き飛ばしたという。その日の久吉の戦いぶりは次のように伝えられている。 本陣にいた久吉は「敵といつまでも向かい合っていても仕方ない。戦機を失ってしまう」と兄の止めるのを振り切って、槍を小脇に単身敵陣へ斬り込んでいった。その勢いにたじろいた官軍は左右に道を開いたという。これらの兵には目もくれず、敵本陣目がけて斬り込んだ。わずか二、三間に迫った時、一発の銃弾が胸板を撃ち貫いた。久吉は尻もちをついて倒れた。前橋藩兵数人が首をはねんと近寄ったところ、突然身を起こして槍を高く挙げ、二、三人を突き倒したという。あたかも鬼神のようであったという。首級は永井宿の高札場に一週間ほどさらされたが、その後、官軍によって駒利山に埋葬された。 今、町野久吉少年の墓は新治村永井駒利山に、首場は会津若松の菩提寺にある。 飯盛山に眠る白虎隊士は、歴史の舞台に華々しく登場し、人々の脚光を浴びているが、遠く異郷の地にあって、若き生命を散らし、訪れる人もなく静かに眠っている白虎隊士町野久吉少年の生きざまも維新の黎明(れいめい)を駆け抜けた男の歴史である。 飯盛山の白虎隊士、中野竹子等娘子軍の戦死とともに、真に会津武士道の権化である。飯盛山の隊士墓地には、これからも参詣人が絶えないだろうが、歴史には往々にして、久吉のような存在を見過ごしていくものである。 (上毛新聞 2003年7月6日掲載) |