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ベルツ記念館長 沖津 弘良さん(草津町草津)

【略歴】沼田高卒。群馬銀行に20年間勤めた後、草津に戻り、草津温泉旅館協同組合専務理事、草津温泉観光協会専務理事などを歴任。2000年にオープンしたベルツ記念館の初代館長となる。

レオン・デシャルム



◎草津を紹介した外国人

 明治の初めに草津温泉を数多くの外国人が訪れていた。それらの人たちの中にはいち早く草津温泉を欧米に紹介した人がいた。その人はフランス軍事教官団として日本政府の招聘(しょうへい)で来日したレオン・デシャルムという騎兵大尉である。

 今年はペリー総督が浦賀に来航して百五十年に当たる。ペリーの開国要求を受け入れた徳川幕府は日米和親条約を締結し、引き続いてオランダ、ロシア、イギリス、フランスの各国と条約を締結した。

 幕府とフランスの関係は急速に進展し、当時、勘定奉行の小栗上野介はフランス経済使節クレーとの間に六百万ドルの借款契約を結び、慶応元年九月、フランス公使ロッシュは幕府に対して長州藩を討つことを具申。幕府は長州藩や薩摩藩の台頭に対応すべく、陸軍の増強策としてロッシュ公使に軍事教官団の派遣を要請した。

 招聘の契約は慶応二年九月、パリにて行われ、シャノワヌ参謀大尉を団長として一行十五人の軍事教官が慶応三年一月十三日、横浜港に到着した。騎兵大尉のデシャルムもその中にいた。今もその名が残る横浜の「フランス山」に陣取り、契約期間三年の予定で当時世界最強といわれたナポレオン三世のフランス陸軍の戦術・戦法の伝習が始まったのであった。

 慶応四年一月三日早朝、鳥羽・伏見の戦闘が開始された。フランス軍事教官の指導を受けたとはいえ、わずか六カ月訓練の徳川陸軍は大敗した。勝海舟が陸軍総裁に任じられたことを知ったシャノワヌ参謀は、勝海舟を訪問して、戦略図を示して協力を要望した。だが、勝海舟は即答を避け、フランス公使ロッシュにフランス軍事教官団が日本の内戦に参加することの危険性を論じて、本国に引き揚げを要請した。

 シャノワヌ参謀やデシャルム大尉らの大半は明治元年(九月八日改元)十一月、いったん日本を去って帰国の途に就いたが、ブリュネほか四人の将兵は函館の五稜郭で榎本軍に参加した。明治新政府は再度のフランス軍事教官団の招聘を依頼し、明治五年四月、デシャルムは再度の来日の機会を得て横浜港に上陸した。

 その翌年八月一日、通訳の奥田賢英らとともにデシャルムは東京を出発し、中山道を草津温泉に向かった。途中の宿泊地間の里程の気温を記録し、途中の模様を詳細に記した紀行文として、当時、ヘボン博士が会長を務めていた「日本アジア協会」(設立は明治五年)の例会が行われた横浜グランドホテルで、明治六年十月二十二日「草津温泉」と題して発表された。引き続き、十一月十五日、二十二日付のジャパン・ウイクリーメール紙に掲載された。

 ウイクリーメール紙に記載されていない事柄が六合村生須に残されていた。草津の旧街道、暮坂峠に向かう生須村で宿屋を営んでいた山市という屋号の家に、今でもデシャルムが宿泊した時の急ごしらえの座卓があり、その裏面に「干時明治六年酉第六月 仏国人デシャルム 日本人奥田賢英 右両人御入浴止節之節新調」とある。歴史の証人がここにあった。

(上毛新聞 2003年6月22日掲載)