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全国・上州良寛会会員 大島 晃さん(太田市龍舞町)

【略歴】群馬大学学芸学部(当時)卒。1963年に太田市立北中の教員になり、97年に同市立太田小学校を最後に定年退職。98年に上州良寛会に入会し、2002年秋に「良寛への道」を自費出版した。

良寛随想(5)



◎叙情的で豊かな詩情

 良寛には次のような詩があります。

 静夜 草(そう)庵(あん)の裏(うち)
 独り奏す 没弦琴。
 調べは風雲に入りて絶え
 声は流水に和して深し。
 洋々として渓谷に盈(み)ち
 颯(さつ)々(さつ)として山林を度(わた)る。
 耳(じ)聾(ろう)の漢に非らざるよりは
 誰か希(き)声(せい)の音を聞かん。

 静かな秋の夜 庵の中で
 私は心の内で無弦の琴を奏でる。
 調べは夜空にとけこんで
 谷川のせせらぎに和し
 広がって谷間を満たし
 爽やかに山林を渡る。
 心に没弦琴を持たぬ人は
 この妙なる調べを聞き取れはしない。
(意訳)

 この「没弦琴(もつげんきん)の詩」は読むもののこころに良寛の叙情的で豊かな詩情が素直に響いてきます。作品としての完成度の高い、良寛の代表作の一つといえると思います。

 草庵の一人住まい、やはり奏でるのは没弦琴でなくてはならなかったのでしょう。遠いせせらぎの音も、谷を渡る風の音も、心に奏でる琴の音に和して響きます。楽しい歌も、悲しい歌もさまざまな歌が良寛の心にわき出ては、消えていったことでしょう。良寛の好んだ一人遊びの時を歌ったものではありますが、ともにこの希声の音を聞く人のあることをも望んでいたのではないでしょうか。

 また、この詩を読むとき、私は白隠(はくいん)の公案(こうあん)、「両掌(りょうしょう)相打って音声(おんじょう)あり、隻手(せきしゅ)に何の音声かある」を思い浮かべるのです。この公案と同質の問いかけを良寛がしているように思えたり、また、良寛自身がこの歌で、公案に答えたもののようにも思えて、一層この詩に深さを感じるのです。

 良寛が多くの詩人や歌人と異なる点は、まず第一に、意識的に専門の歌詠み、詩人になることを厭(いと)ったこと。次に、本格的な創作に入る前に長年にわたって雲水としての魂の修行をしたことです。そしてその厳しい修行によって体得した確固たる宗教観に基づいた創作であったこと。第三に流行を追わず自らの心の表出に合った自由な詩歌の表現方法を身につけたことです。それが、平仄(ひょうそく)に拘(かかわ)らない漢詩の表現になりました。

 私は良寛が、詩を創(つく)るこころも、歌を作るこころも、書を書くこころも、托(たく)鉢するこころも、子どもたちと遊ぶこころも、根源は一つ、「淳真(じゅんしん)な心」から来ているのだと思っています。特に、良寛が優れているのはその心がいつも温かいことです。

 また、良寛の詩歌を読んでいるとその心の響きが外へ外へと伝わってくるものと、その心が内へ内へ向かっているものがあるのに気づきます。私は前者により「歌」を感じ、後者により「詩」を感じます。

 例えば、前述(四月十九日付)の「月読みの歌」には良寛の心の「歌」が聞こえますし、この「没弦琴」の詩には優れた「歌」と同時に「詩」をも感じるのです。

 今回は柳田聖山著『良寛』(NHK文庫)のご一読をお薦めします。

(上毛新聞 2003年6月17日掲載)