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◎時宜得た『上州風』特集 数年前から、県の総務部地域創造課より、『上州風』(発行・上毛新聞社)の寄贈を受けている。全国どこに出してもひけをとらない第一級の総合文化雑誌だ。ページのどこからでも上州の風が吹いてくる。毎号、特集企画がよい。“地域の物語を発掘する”という編集陣の心意気が紙面に横溢(いつ)。「わが群馬もこれほどのインテリジェンスマガジンを持ち得る時代になったのか」との実感を胸に、第十四号を手にした。 表紙はかなり大胆だ。赤地に白のトルコ国旗と、白地に赤の日章旗が上下に配されていて、『特集1・寅次郎奔(はし)る 日本と土耳古(トルコ)を結んだ快男児』のタイトル文字。だが、読者の多くは「寅次郎って誰?」と、首をひねるにちがいない。県内ではほとんど無名である。 山田寅次郎は慶応二年に沼田藩家老中村家の二男として江戸屋敷に生まれたが、維新の動乱を避けるため、二歳で沼田に疎開。七歳で東京に戻っているから、上州っ子歴は五年と短い。十五歳で、茶道宗ヘン流山田家の養子になったが、漢学のほかに英、独、仏の語学を学び、筆も立った。十代のうちから「東京日日新聞」に寄稿し、文人たちとも交際した。 明治二十三年の九月、日本へ初の使節団を乗せて来航したオスマン・トルコ帝国のエルトゥールル号が帰路、和歌山県の紀伊大島村(現在は串本町)の樫野埼で遭難。六百九人といわれる乗員のうち、五百四十人が殉難する大海難事故になった。寅次郎はこの犠牲者の遺族に義捐(えん)金をと、募集活動を展開し、現在の一億円相当を集め、事故から二年後、その大金をイスタンブールへ届けにいく。これが大ドラマの始まりで、ときに二十六歳だった。 寅次郎はそのままトルコに居ついて、青年士官に日本語を教えながら、国王の東洋美術コレクションの整理分類にも当たっている。のちにトルコ共和国の初代大統領になって、さまざまな近代革命をなしとげるケマル・アタチュルクは、寅次郎が教えた士官のひとりだった。寅次郎が快男児たるゆえんでもある。 日本とトルコは第一次世界大戦後の大正十三年に国交を結ぶが、寅次郎は昭和三十二年に九十歳で没するまで日トの民間外交につとめ、日本トルコ協会の設立と運営に尽力した。 『上州風』十四号は、紀伊大島への紀行をプロローグに、寅次郎の生涯を浮き彫りにしている上、じつにタイムリーである。今年が、「日本におけるトルコ年」で、各種イベントが展開されているからだ。トルコ大使館の“HP”には『日ト民間友好史』が載っている。PRめくが、私が書いた。私が“エルトゥールル号の遭難”に始まる交流史を取材していく過程で、トルコ大使館とたまたまご縁ができた関係上、柄ではないことを承知して書かせていただいた。私は過去、トルコへ三回旅した。寅次郎がトルコに入れ込んだ心情が『上州風』十四号によって、さらによくわかった。 『上州風』が県民誌として読者の支持を得、さらに発展していくことを願ってやまない。 (上毛新聞 2003年6月12日掲載) |