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◎幻夢を文学的に昇華 今年は宮沢賢治の生き方を音楽でたどるコンサートを開いているので、作品を読み返しているのですが、「春と修羅」を読んでいて、ふとわからなくなり立ち止まっているうちに、賢治はさらりと身をかわし、はるか彼方に行ってしまうような気になることがあります。歌う時は、半分は音楽に任せ、自分なりに想像をめぐらせ感覚で歌ってしまうのですが、わかろうとして読むとますますわからなくなります。 「雪渡り」と題した三月のコンサートでは「ざしき童子のはなし」もプログラムに入れました。その時来てくれた岩手大学の国語科の教授の友人が、彼の論文「ざしき童子考」を下さり、遠野の昔話の背景にふれたのですが、「賢治は妖怪や霊の話をよくしたんだよ。板谷栄城の本を読んでごらん。賢治と同じ盛岡高等農林で学び、バイオリニストでもあるし、音楽とのかかわりについてもこだわっているよ」と話していました。 間もなく「宮沢賢治、美しい幻想感覚の世界」が送られてきました。おもしろいと思い、板谷著の本を集め、読み進んでいます。 彼の主張はこうです。 ―賢治は仏教を信じ、深い哲学と高い精神で、生きとし生けるものを愛しぬいた愛・・の人・で、農芸化学の知識を武器として農民の幸せのため、尽くしぬいた農・・・の人でもあった。ところが一方、一滴の露に全宇宙の美を見、一陣の風に永遠のときを感ずるという、たぐいまれな超感覚を持っていた。また、空にひびわれの入るのを見たり、天であやしい楽の音がひびくのを聴いたり、月が果物のような匂(にお)いを発するのを感じたりするという、一種の超能力を備えた人でもあった。生まれつきの超感覚が、幼いころに菩提(ぼだい)寺の和尚さんに聞かされた地獄極楽の話や中学生のころから背表紙がすり切れるほど愛読し続けた「アラビアンナイト」や「西遊記」などによって大きくふくらまされ、美しく磨かれたのであろう。十八歳のころ高熱が続き、さまざまなあやしく美しい幻夢を見て、その魅力に惹(ひ)かれたらしく、後には自己暗示をかけて、わざわざ幻夢をよび起こすようになり、その印象を文学的に昇華させて書いたのが「春と修羅」(第一集)と「注文の多い料理店」である。ベートーベンの「運命」を聴き、衝撃を受け、共に聴いていた弟の清六に「このようなものを必ず書いて見せる」と語り、一つのモチーフを基に、精神の高揚するままにそれを展開していくというベートーベンの手法で、刻一刻と移り変わる心象風景をスケッチしたのが「春と修羅」だ―。 謎が一気に解けたかのようでした。今月二十九日のコンサートでも「春と修羅」の中から「高原」「無声慟哭」より「風景」を歌いますが、喪神という言葉がわからずにいたのですが、意識が薄くなり、心象(幻想)の世界に入ってゆく、ということで、意識が薄くなるだけの失神と区別したのだそうです。 以前、「オペラシアター・こんにゃく座」にいた時、ある演出家が「オペラって不思議だ。芝居なら成立しないことが、音楽がつくと成立してしまうからね」と話していたのを思い出しました。普通の人が感じることのできない美しさを感じ、思うことのできない悲しさを思い、見ることのできない不思議を見ることのできる、鋭く深くまばゆいまでの賢治の感性。わかろうと考え込むより、魔法のランプをこすってみたり、きん斗雲にのって空の果てまで行ける想像力を持ちたい! 音楽が、歌が私を導いてくれたら…と思います。 (上毛新聞 2003年6月7日掲載) |