視点 オピニオン21
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主婦 岡本 優子さん(箕郷町柏木沢)

【略歴】渋川女子高卒。一昨年、地元の人たちによる演劇「蚕影様物語」で国民文化祭の自主企画事業に参加。昨春は「貰い祝儀」を地元の人たちの手で再現し、映像に残すことに参加した。

箕輪城



◎“消し炭”に火をつける

 ませまつりいわいまつる箕輪城のよよのおやたちいかだやからのみたまのみまえをおろがみまつりていわいぐちつつしみうやまいてもうさく…
(菅原神社宮司、長野高朋様の祝詞奏上より)

 さる三月二十三日、梅香る古城の里として知られる箕郷町で手作り甲冑(かっちゅう)武者行列と箕輪城鎮魂祭が町内外の有志の人たちによって開催されました。快晴の青空のもと花火と大砲が高らかに鳴り響き、今、五百年という悠久の時を経て戦国時代絵巻の情景が目の前に繰り広げられたのです。

 役場を出発した九十人ほどの武者行列隊は一時間半ほどをかけて大手虎韜門(ことうもん)口から登り三の丸・二の丸・本丸へと進み御前曲輪(ごぜんくるわ)へと凱旋(がいせん)する。御前曲輪では長野氏の幟(のぼり)旗や吹き流しが色とりどりにはためき、三十メートル以上あるかと思う陣幕の中央に、知勇兼備と誉れ高い箕輪城主長野業政公、その両脇に三人の女将と八人の武者たちが今かと待ちかまえる。かつてこの地を居城に栄えた長野氏の在りし日の姿をしのび、思いをはせる時このような場面ももしかするとあったのではないかと思うのでした。

 箕輪城落城の折、武田軍から逃れられた当時二歳といわれた亀寿丸様(長野業盛公の遺児)から二十代目に当たるといわれる長野高朋様、長野氏の菩提(ぼだい)寺である長純寺の住職長野伸道様、両氏のお話には感動いたしました。

 箕輪城跡を思い十年も前からふるさとづくりに活動する三団体(四区ドリーム21・みさとほたるの会・城山入り口フラワークラブ)とNPO法人箕輪城元気隊の人たちが中心となり「町民による手作りの祭りがしたい」という呼びかけをしたところ、たくさんの人たちが製作スタッフや武者行列に参加。私もスタッフとして参加しました。

 「おれたちは“消し炭”に火をつけるんだ」と熱く箕輪城のことを語る主催者の目はキラキラと輝いていました。

 また、二年前から着々と準備を進め八カ月も前から毎週土日、祝日を利用して中学校の木工室、被服室を借りて製作、自宅にも持ち帰り夜なべ仕事もして最後まで頑張った人たちに大きな拍手を送りたいと思います。材料はほとんどがリサイクル品を使用、甲冑は紙製で高崎だるまの伝統技法を用いて製作、旅館からもらった浴衣は染め直して小袖と袴(はかま)に、カーテンは陣羽織に、カーペットは鎧(よろい)に。わらじは手編み、刀、槍(やり)、弓、銃も手作りし、幟旗の字も手書きをしました。

 箕輪城は一五○○年ごろに長野氏によって築城されました。長野氏四代が在城し、一五六六年に武田信玄によって滅亡。その後、武田・織田・北条・徳川と次々と戦国大名が取って代わり徳川の時代に和田城(高崎城)へ移築されました。断崖(がい)が高く自然の要塞(さい)として実戦に強く、武田軍の侵略を何度も阻止した、西上州一の名城でした。しかし廃城となって四百年以上たつ今日、懐古の情は深く多くの人たちのしのびがたき思いになっていました。先ごろ町の発掘調査で大規模な城門が発見され、そしてこのたびの箕輪城の武者行列と鎮魂祭が開催されたりとうれしいことが続き、城山に眠るたくさんの御霊(みたま)が喜んでくれているように思います。

(上毛新聞 2003年5月18日掲載)