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◎自由でいられる世界 木槌(つち)を振り木肌にノミを当てる。木片がパサリと落ちる。決まった。私の趣味の一つである円空彫だ。 昔、家の前の通りに面した店先でいつも仏像を彫る職人の姿に、私は何かひかれ、じっと見入ってしまう時があった。仏像そのものにひかれたのか、彫るという行為にひかれたのか、どちらともわからなかったが、次第に自分にも彫れるのではないか、いや彫ってみようという気持ちが熟成してきていた。 そんなある時、円空仏に出合った。その簡潔さ、力強さ、そして仏像とはいいながらもあまりにも人間くさいほほ笑み、私は強烈な一発を食らったような興奮を覚え、それからは文献、資料をあさり一気に円空の慈悲、勇壮、悲壮の美しさを刻み始めていった。 仏像を彫ろうと一本の何の変哲もない木材を手にする。薪(まき)割りでバッサリと割る。しかし現れた木肌はそれ自体十分美しい。時にはこれから入れるであろうノミを寄せつけないほど、自然のつくり出す美しい模様を浮かび上がらせていることもある。木面(きづら)をじっと眺め見据えて木に問いかける。木の無言の叫びが聞こえてくる。やがてその叫びは私自身に作ろうとする仏の姿を読みとらせてくれる。私はただ無心にノミを振るう。一振りの無駄な動きも許されない。一片の木片でも振り落としてしまえばそれまでだ。 私は陶芸の仕事をしているが、その点、土はよい。落としてしまったら張り付ければ全く痕跡を残さずくっついてくれる。球形でだめだったら四角形にしたってよい。こちらの心の迷いを受け入れてくれる柔軟性と包容力を持っている。しかし円空彫の一振りの厳しさと緊迫感は土では味わえない快感を私に与えてくれる。 私は円空仏を彫っていくうちに、私自身がこれほどまでに円空彫にひかれていくのは何なのか、次第に見えてきた。昔、円空は諸国を行脚し、病や災いから人々を救おうと、つまり信仰の対象として仏像を彫った。しかし今の世の中、ふとした時の心のよりどころとして、手を合わせることはあっても仏像にそれだけの力を期待するなどとはとうてい考えられない。私とて同じことだ。 でも私が円空仏を彫りたいのはなぜか。簡潔な彫り、勇壮、悲壮の美に対するあこがれなどさまざまな魅力があるが、それ以上に自分自身にわき上がってきた心の発露を既存の約束ごとにとらわれずに思いに従って表現してもよいという自由さではないか。 社会機構、人間関係が複雑化している現代、私自身さまざまなことに規制され制約を受けるのはしかたがないが、居心地のよいものではない。そこから開放され自由な世界に心を遊ばせる。その結果が一つの形を生み出す。これは私の生き方にぴったりとフィットするのである。あえて仏教的な見方をすれば束縛という災いから私を救ってくれているのかもしれない。自由奔放さが最大の魅力と言ったら円空さんはどんなお顔をなさるのであろうか。いずれにしても自由でいられる世界を与えてくれる私の円空彫に感謝、感謝である。 (上毛新聞 2003年5月9日掲載) |