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◎22人の非業の死を思う 「国立療養所多磨全生園」は、私の家からそう遠くない東村山市青葉町にある。かつてらい病と呼ばれ、不治の病と恐れられてきたハンセン病の療養所で、明治四十二年に開設されて以来、九十四年。開所時、周辺の村人たちは、「お山の監獄」と呼んでいたという。 当初は「第一区連合府県立全生病院」といい、東京府と関東甲信越など十一県が費用を分担する公立だったが、昭和十六年に国立になって厚生省の所管に移され、今日に至っている。入所者は戦後のピーク時に千二百人を超えたが、現在はおよそ四百五十人。特効薬プロミンによって病は治ったものの、差別と偏見に社会復帰を阻まれた人たちが、園内で余生を送っている。その平均年齢は七十五歳。全国に十三ある国立療養所のそれとほぼ等しい。 わが県内には草津町乙の地内に「国立療養所栗生楽泉園」があって、この四月現在、二百五十一人が入所している。平均年齢は七十七歳を超えていると聞いた。日本では新発生患者はほとんどなく、平成八年には「らい予防法」が廃止され、一昨年五月には国が誤ちを認め、国家賠償に応ずることになった。したがって、あと二十年もすれば、ハンセン病のことも、差別と偏見に家族までもがさいなまれた患者たちの苦しみも、忘れ去られていくことだろう。 私は近年、全生園やハンセン病の昭和の暗黒史を調べるべく、全生園内にある「ハンセン病資料館」に足を運ぶようになった。同館は週四日、それも午後だけの開館だが、今年で満十年。見学者は昨秋で十万人を突破している。資料展示室の品々には、胸がつまらされる。戦前の療養所は、人権のかけらもない収容所だった。規則に反した患者は、園内の“特別病室”という名の監房に監禁されたが、さらなる厳罰もあった。“草津重監房送り”である。 昭和十二年に開園した楽泉園の林の奥に、赤レンガの重監房ができたのは、昭和十三年末。以来二十二年までに九十二人が入れられ、二十二人が死去している。昭和十六年に全生園からここに収監された洗濯場主任山井道太は、足の傷が痛むため長ぐつの支給を求めただけで検束され、三カ月後に一命を落としている。 昨年の夏、私はこの重監房跡を訪ねた。草津には何度も行っていながら、初めて園内を見学し、二十二人の非業の死を思った。 「らい予防法」の廃止につながるハンセン病患者の人権回復運動はじつに、楽泉園の患者自治会の人たちが昭和二十二年にあげた、「重監房をなくせ!」の声から始まったのである。 東村山市立青葉小学校の児童は、全学年でハンセン病についての総合学習を重ね、昨年秋には全生園のコミュニティーセンターで大々的な学習発表会を行った。またとない人権教育の実践で、楽泉園の重監房もテーマの一つになっていた。草津町の小中学校ではどうなのだろう? 関係者にたずねてみたい。 (上毛新聞 2003年5月7日掲載) |