視点 オピニオン21 |
■raijinトップ ■上毛新聞ニュース |
|
|
◎旅行を変えた鉄道文明 週末の夕刻発の新幹線は自宅に急ぐ単身赴任者でいっぱいだ。実は私もその一人だ。かれらは弁当と缶ビールとスポーツ新聞を買い、座席で静かに過ごす。過ぎた一週間の仕事を思い、帰るべき家庭を思う。おなかがみちてビールが効いてしばし休息する。ターミナルに着くとリクライニングの座席を元に戻し、弁当のごみを車外に持ち出してごみ箱に入れる。座席の周りに食べ散らかしはない。清掃作業員が手際よく掃除しヘッドカバーを交換すると、反対方向へ帰る人で座席はたちまち埋まる。ビジネスマンはエチケットマンと言っていい。車内では赤ん坊はやはりよく泣くし、ご婦人のグループはおしゃべりが多い。若い人は携帯電話で忙しい。 日本で新幹線が開通したのは東京オリンピックの年、一九六四年のことだ。新幹線で東京から新大阪までどのくらいかかるか、ご存じだろうか。距離は五五二キロ、「のぞみ」では二時間半、料金は一万四千七百二十円、「ひかり」で三時間、一万三千七百五十円だ。われわれが一日働いて手にする平均収入が一万三、四千円とすると、日給額で東京から大阪までいけることになる。 日本で鉄道が開通したのは一八七二年、新橋―横浜間の二三・八キロであり、所要時間は五十三分、時速は三三キロであった。乗車賃は一キロメートルあたり二銭七厘であり、米一キログラムの価格で乗車できるのは一・四キロの距離にすぎない。日給が三十銭とすると一〇キロしか乗れない。一八八九年には新橋―神戸間の東海道線が開通した。所要時間は十五時間、時速は三〇キロであった。レールの幅は狭軌であった。その後一九三四年からの「つばめ」は東京―大阪間を八時間で走り、時速は六九・六キロ、米一キロの乗車距離は一八キロになった。これが明治、大正、昭和前期の鉄道文明の姿である。この約半世紀に東京―大阪間の旅行時間は半減し、運賃は十三分の一になった。 それがいまや東京―大阪間は三時間になった。運賃は四十分の一である。明治初めの運賃率であると仮定すると四十万円ほどを要することになる。それが実際は一万三千円だ。一日働いて得た収入で五五二キロを移動できる。こうして鉄道文明の進歩により人々は安全に快適に、安く、時間を節約して移動の手段を手に入れたのである。徒歩や駕籠(かご)や牛車が移動手段であった江戸時代以前の旅行と比べてみるといい。 日本の新幹線は高速大量輸送手段として世界に評価が高い。フランスのTGVやドイツのリニアモーターカーに決してひけをとらない。その証拠に海外の台湾で運転が始まるし、中国では上海―北京間に導入の計画が進んでいる。戦前、日本の領土には「大陸」、「興亜」、「ひかり」、「こだま」、「あじあ」という朝鮮から中国を直通する列車があった。そうした侵略のためではなく、平和と繁栄のために「あじあ」という新幹線がいつか日本とアジアの間を走るだろう。 (上毛新聞 2003年5月3日掲載) |