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◎読書介して記憶と友情 転居通知が舞い込んだ。子どもたちは独立し、連れ合いに先立たれ、ついの住処(すみか)に移ったTからである。 上京し、学生生活で最初の友人がTであった。敗戦から数年、衣食住もままならぬころであった。Tの故郷は米軍占領下にあった南の島。米ドルを使う米国人留学生であった。 Tの語学力は抜群で英字新聞の速読、文章をつづるタイプライターの響きの軽いこと。私にとって、Tは誠にまぶしい存在だった。 教室や構内に姿がない時、Tは図書館の虫になっていた。評判を呼んだ小説は総なめし専門分野以外の本は全て図書館を利用して読んだ。 卒業後は高校教師として、定年後は他大学に入学し哲学を専攻、単位取得後は都心の夜の講座で翻訳法を身につけた。いち早くある有名な出版社から十指に余る作品を出した。うち幾つかは若年層の間で大ベストセラーになった。 Tにとっての引っ越しは唐突ではなかったのだが、一番の懸案は膨大な書籍の量であったろう。研究熱心なTにとって多種の辞書類の処分も頭の痛いことであったと思う。 戦中・戦後に本無し時代を体験した世代にとって、本への欲求は強かった。上京して、まもなく本屋街に活気が戻ってきた。文学・美術・演劇。東西古今の名著。内外作家の個人全集。戦中の発禁本等々。洋書も少々待たされたが入手できた。 田舎の男尊女卑の封建思想を背負わされて育ってきた女子学生を狂喜させた本が出版された。実存主義哲学者サルトルの愛人と目されていたボーボワール女史の「第二の性」の全集であった。 夜を日に継いで熟読した。Tに誘われて入った女子学生寮の週末の夜は「第二の性」の討論会になった。消灯時間など何のその。日ごろのまずい寮の食事への反発もあったのだろうか。空腹に耐えられず、故郷の名物が持ち寄られ、皆で食べて飲んで口角あわを飛ばし議論した。黒豚の味噌漬け、ピーナツの黒砂糖菓子などはTからの差し入れであった。 若き日の感受性の強さと、たぎつ血潮を彷彿(ほうふつ)とさせる向学心の激しさは読書を介しての記憶と友情を想起させた。 半世紀にわたり集められ、読まれた本は皆生きる身体(からだ)を巡る血となり、情念こもる思い出の“よすが”になった。本との別れは、人との別離に比べ得べくもないが、何とも苦しいものであろう。 多感な学生時代、Tを知り、Tの生きざまを見、Tを通して書を読みて学ぶ知恵を得た幸福に感謝せずにはいられない。 Tはそんな思いのこもる蔵書の大部分を捨て値同然で手離し、窓から桜花が見えたからと決めたマンションで独りの生活に入った。ピアノと一個の小さな書架を支えに。 (上毛新聞 2003年4月20日掲載) |