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◎木は林になり森になる 今から二十年以上前のこと、私は太田市にある大学に職を得た。そのとき以来ほぼライフワークとなった感があるのが中島飛行機の歴史研究である。その動機は若い学生に「光る」郷土の歴史を教えることと、それが学問的に意味があるからだ。その成果は十年以上前になるが、「中島飛行機の研究」というタイトルで出版した。一カ月で初版が売れ切れ、たちまち再版になった。購入者からいくつもお便りをいただいた。これが“一本目の木”である。この本では途中から政治家に転身した中島知久平について書き残した思いがあった。 中島知久平は言うまでもなく近代の群馬が生んだ偉大な人物である。利根川沿いの尾島に生まれ、海軍軍人、中島飛行機の創立者、政治家という三つの人生を歩んだ。この春に出版予定が「評伝 中島知久平」である。これが“二本目の木”である。 この本では海軍機関学校について調べた。同級生が四十人、最高に出世した中将が三人いた。中島は卒業時に三番の成績であったから、三番目の中将は確実であった。だが同級生の全員が最後まで軍人を務めたかというと、そうではない。中島と同様に途中で海軍をやめた人物の一人が日置三郎である。中島も稀有(けう)な人生を送ったが、日置はもっと激しい人生であった。 日置は軍人をやめて飛行機技師として川崎造船に就職した。飛行機先進国のフランスに派遣されたことが、彼の運命を決めた。川崎造船社長の松方幸次郎は第一次世界大戦勃(ぼっ)発に伴い、材料高、船価高を見込んで標準船を大量に造った。これが見事に当たり、会社はぼろ儲(もう)けした。松方はそれを原資にし、ロンドンやパリで美術品を買い漁(あさ)った。「壁全部買う」という買い方は、たちまち画商の間で松方の名前を有名にした。パリに派遣された日置は飛行機情報の収集に加え、松方の秘書的仕事が多くなった。川崎造船は川崎重工業という飛行機メーカーになり、今はバイクメーカーとして知られている。富士重工業が四輪車をつくっているのと同様である。 松方が収集した美術品はいま上野の国立西洋美術館に展示してある。松方コレクションがそれであり、ドイツ軍の攻撃からコレクションを守った人物が日置である。彼は美術品を戦渦のパリからパリ郊外に疎開させた。戦後の日仏交渉により、一部を除いて日本に返還された。彼の尽力に対して日本政府は年金支払いを約束した。しかし彼は一回も受け取ることなく死去し、あとにはフランス人の妻と一人の娘が残された。 この事実は“小さな枝”かもしれない。しかし中島飛行機を調べることにより、徐々にではあるが“大きな森”になる気がする。 (上毛新聞 2003年3月18日掲載) |