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◎「のとりの池」に由来 野反湖は、東京電力が電力用水調整池としては全国で初めてのロックフィルダムを建設し、昭和三十一年に完成するまで、野反池と呼ばれていました。 地元の人はダムができる前も、そしてダムによって豊富に水をたたえる野反湖になった今も、野反と呼んでいます。 最近、以前に増して、地名に対する関心を持つ人が多くなったせいか、「どうして野反って言うのですか?」と聞かれることがよくあります。 はじめは、「野が反り合ってるからじゃないですか?」などと、深く考えもせずに答えていました。 嘉永元(一八四八)年、今から百五十五年前に、信濃国松代藩士だった佐久間象山が鉱物資源調査のため、沓野村から上野国草津村入山地方を通って、信濃の秋山地方に抜けた時の記録が『沓野(くつの)日記』です。 その『沓野日記』の中に当時の野反の呼び方が出てきます。「地勢平かにして、中に大なる池あり、ぬの池とも又、のとりの池ともいふ」。「ぬの池」の「ぬ」は、沼をあらわす古い言葉だと思われますから、「のとりの池」に野反の由来を求めるのが適当かと思います。 今では、ハイキングや釣り、植物の観察などに大勢の観光客が訪れる野反湖ですが、野反池と呼ばれていたころは、地元の人たちが生活に必要な物を取りに行く場所でした。六合村では『こんこんぞうり』という、スリッパ型のぞうりを今でも作っている人がいますが、このぞうりは、地元でイワスゲと呼ぶスゲの縄に編み上げて作ります。イワスゲ縄は背負子(しょいこ)の背当て部分に巻いたり、家を造る時の土壁の中にも使いました。生活に欠かせないイワスゲ縄の材料であるイワスゲの採取地が野反でした。九月の初旬に『山の口』という日が定められ、山の口の開ける前のイワスゲ刈りは禁じられていました。山の口の開ける日は、夜明け前に提灯(ちょうちん)をともして野反に向かったといいます。 イワスゲ縄より太くて強い、通称『かちん縄』は、馬の荷鞍(にぐら)や背負子に荷を付けるのに使いましたが、この材料の『しなの木』の皮も野反から採取してきたものでした。 その他にも、むしろやぞうりの材料となるガマなど、さまざまな生活必需品の原材料を野反に求めていました。 畑で栽培するのではなく、山野の自然の中から採取することを、「山取り」とか「野取り」と言います。 野取りをする場所にある池が『沓野日記』の「のとりの池」であり、「のとり」が「のぞり」に転化したものと思われます。 地域の生活の中から生まれた地名が多くあることも考えると、「野が反り合ってるから」という答えは、正しくなかったのでは? と思うようになりました。 野反という地名の由来はともあれ、上信越高原国立公園内にある今の野反湖周辺では、自由に「野取り」をすることはできないということを理解した上で、野反湖の自然を楽しんでいただけたらと思います。 (上毛新聞 2003年2月22日掲載) |