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ベルツ記念館長 沖津 弘良さん(草津町草津)

【略歴】沼田高卒。群馬銀行に20年間勤めた後、草津に戻り、草津温泉旅館協同組合専務理事、草津温泉観光協会専務理事などを歴任。2000年にオープンしたベルツ記念館の初代館長となる。

草津馬子唄



◎沓野の馬方が歌う?

 馬子唄といえば、つとに「小諸馬子唄」が有名である。その哀愁を帯びた調べは旅人の旅情をかき立て、街道の情景をよく描写している。「草津馬子唄」の存在を知ったのは偶然の機会で、北信地方の一地方新聞の「道」という座談会の記事の中であった。

 古くから長野県の渋・湯田中の温泉地と草津温泉とを結ぶルートは「草津道」と呼ばれた。その間七里の山道は日本有数の峠道で、標高二、一七二メートルの渋峠がある。道筋は狭く、危険な難所が控えていて、人か牛でしか通れなかった。馬が通行可能となったのは、明治も後半になってからのことであり、しかも五月から九月の間であった。

 もとより北信地方との関係は深く、慶長八(一六〇三)年、松平忠輝が海津城(松代城)に入ると、草津、入山(上州)、沓野、田中(湯田中)、佐野村(山の内町)もその支配地となり、松代藩領内図にも「くさつ山道」と記され古くから利用されていた。庶民の間に善光寺信仰が盛んになると、温泉湯治と結びつけた「草津道」の往来が頻繁となり、名のある温泉地として発達していった。しかし草津は、気候や風土の特性から日常必需物資はすべて信州方面からの輸入によって賄われ、「草津道」を牛や背負いにより草津温泉に運び込まれた。

 一方、沓野村(信州)は耕地が少なく山稼ぎと駄賃稼ぎに従事し、万延元(一八六〇)年、沓野村から草津道を千四百十八頭の牛によって物資輸送が行われたことが記されている。運ばれた物資は主に玄米、雑穀、酒類、鮮魚、畳表、それから鶏卵などの生活物資で、帰りには硫黄、湯の花、荒物が山を越えた。

 明治二年、新政府により関所などをはじめ交通上の規制がなくなり、人の往来や物資の輸送が自由になった。同九年には浅野(豊野町)から中野町を通り、渋峠までが仮定県道(長野県側)に指定され、正式に「草津街道」と命名された。このころから渋峠越えの馬の背による輸送が増加した。「草津馬子唄」は沓野の馬方が歌ったものといわれるが、どのような節回しで歌われていたのかは定かでない。同三十年、渋温泉から草津に至る紀行文「草津嶺を踰(こ)ゆるの記」を発表した田山花袋は、その中で「牛曳きたる草刈童、いとのどかに歌ひつゝのぼり行く」と書いているが、それが馬子唄であったのか。

 草津馬子唄の歌詞は次の通り(「湯田中のあゆみ」より)。

 朝の早出は
  おさごをあげて
        十二山王
         参ります

 桑山くわんのき
  たずなをしめて
      先はながいぞ
          十二沢

 滑坂長峯
  一気に登り
       やがて鞜打
          一休み

 湯沢湯坂は
  横手の裾よ
    のっきりのぞきは
        なおこわい

 池の塔から
  尾根筋見れば
    あちゃとだんべの
           国境

 浅間山から
  鬼ゃけつ出した
   鎌でかっきるよな
        屁をたれた

 上州見えたよ
  だましの棚を
        芳ケ平か
          毒水か

 草津善光寺
  峠の道は
      渋へ七里の
          近道だ

(上毛新聞 2003年2月11日掲載)