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保護司会連合会長 若槻 繁隆さん(伊勢崎市茂呂)

【略歴】大正大学文学部卒。1952年から、保護司、高校教諭として活躍。88年、太田高校長で定年退職。退魔寺住職として前橋刑務所教誨(かい)師を務め、受刑者への説話を続けている。

こころ



◎大人に大切さ説く責務

 人は生活の中で、常に何かというと「こころ」が「ある」とか「ない」と言うことをよく口にし、問題にすることがある。子供が「ものごごろ」がつくころになると、大人に「こころ」は「どこにあるの」と聞くと、大人は一瞬困ったような顔をして、「ここにあるのだ」と、胸を指し示して教えてくれたことがある経験の持ち主が多いのではないだろうか。しかし年を重ねてくると「こころ」が胸にあると思っている人はほとんど皆無と言ってよいだろうが、それでいて時代物の洋画などでは立派な大人が「恋心」を打ち明けるときには、大げさに胸を押さえるしぐさが演じられていても、おかしく思わないでいるのだから、これもまた不思議なことである。

 現今の世情を見ると、われわれの周囲は言うに及ばず、日本全国から、もっと広く言えば世界的に「こころ」の欠如している姿が当たり前のように「見られ・聞かれ・話され」ているのに気がつくのである。そしてその中で「こころ」の大切さが説かれていて、なるほどと思いながら、自分だけを大切に「他人に迷惑」を掛けることを平然と実行している。政治にしても、経済にしても、行政にしても「こころ」が奈辺にあるのかと思われることが多々ある。もっと言えば、人の「こころ」を一番大切にしなければならない宗教の世界を見ても、これでは「こころ」を説くことは、とっくの昔に捨ててしまったのではないかと思うことが間々ある。俗世間の垢(あか)に汚されない、生まれたままの赤ん坊の時の「こころ」でいることは、まず不可能なことであり、知らず知らずの間に百八煩悩に取りつかれ、まみれて立派な大人になっていくのである。

 名誉に憧(あこが)れ、地位を欲し、権力に取りつかれて右往左往しているのが人の世の常であると割り切ってしまえばそれまでであるが、しかしそれでは済まないのが、人のこの世であり、世界であるはずである。自分の作ったものであるための執着心であったり、自分の自由にするための操作であったり、数え上げれば切りがないほど、よくもこんなにあるものだと、あきれるほどである。

 古人が「子は親の背を見て育つ」と言ったが、実に名言であるというべきであるが、ただし現代は見られる背中が多くなっていることに注意しなければならないのである。すなわち親だけでなく、教師も、政治家も、宗教家も、隣人も、先輩も、すべて子供を取り巻く人は背中を見られていると考えなければならない。その中で「こころ」無い人が「なすこと、言うこと」が「面白おかしく」興味本位にエスカレートした結果、ブレーキが利かなくなるようになって、その時になって、あわてて「こころ」の教育をしても、罰則を強めても、泥棒を捕まえて縄を綯(な)うようなものであるということになる。

 だからといって、諦(あきら)めてしまったら世も末で、「こころ」の大切さを説くことは、われわれ大人に課せられた責務であると思うのである。ただ残念なことに、ややもすると口先説法に終わって、行動が伴わなくなるのが、現代風潮であるところに悲しさがある。一時は感心し、うなずくかもしれないが、持続性がない。「人のふり見て、わがふり直せ」。昔の人の洞察力には恐れ入るばかりである。

 昔から「心ここにあらず」という言葉がある。うわのそらでは「こころ」の温まる世界は生まれてこない。人の「こころ」は千差万別であり、地域や国・言語・環境・肌の色等々が異なっても「こころ」が通じあい、理解しあえば、争いはなくなり、自他共に尊重することができるはずである。

(上毛新聞 2003年2月6日掲載)