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◎労苦がつくり出す地力 夏の夜、涼みがてらに畑に出かけ、野菜たちの表情を見る楽しみを覚えて十年ほどになります。ここ数年は雨が降っても行くようになりました。それが癖になり、時々冬の夜でも畑に行きます。 おととし、冬晴れのつづいた真冬の夜の畑での体験は、驚きと喜びとが一緒になった感動でした。 私は何げなく畑の土を握ってみたのです。冬の土ですから冷たかったです。握りながらすっかり乾燥した土だから、少しは昼のぬくもりが残っていないかと思い、別の所の土も二、三カ所ほど試してみましたが、同じでした。 それでも隣の畑はどうかと思ったのです。隣の畑は私の地区では、数少なくなった専業農家の畑です。その中でも篤農家といわれる人が、何代にもわたって耕作してきている畑です。「俺(おれ)の畑とは違うかもしれない」。そう思って、勇み立って隣の畑に入ると、足が土の中にめり込むのです。土が本当にやわらかいのです。その畑を七、八メートル歩いて土に手を入れました。その時、冷えきっている私の手にほのかなぬくもりが伝わってきたのです。さらに両手を入れて、しばらくそのままでいました。 そして、私は「これはいったいどうしたことだ」と思いながら、畑の土をしっかりと握りしめていたのでした。 「土はすべての物を抱いて育てている。命を育てているのが土だ」と、若い時に聞いた話が突然甦(よみがえ)ってきたのです。 とりわけ天然自然のままに育つ植物ではなく、人の手によって蒔(まい)たり、植えたりする農作物を育てる畑はこうだったのかと、深夜の畑の中で私は、「耕すとはこういうことか。よく耕された土は固まらないから、太陽の熱が土の奥まで入っているのか。そうだったんだ。土を作るとはこういうことだったのか。これは一朝一夕にできることではない。耕す人の労苦がこうした結果をつくり出したんだ。農という仕事はこういうことだったんだ」―そう心の中でつぶやいていたのでした。 私の畑の土と隣の畑の土の違いは、先祖代々耕しつづけてきた畑と昨日今日のにわか百姓の畑の違いだったのです。 大地の土はどれも同じだと認識していた私の愚かさを思いもかけず感じたのです。 しかし、なぜか私の心は隣の畑の土のようにほのぼのとぬくもっていたのです。 「地力という言葉があるが、地力とはこの畑の土と同じで、この土のぬくもりをつくることだったのだ。このことは、何事にも共通することだ」と、深夜の畑でひたすら感動していたのでした。 そして、私の畑同様に非力な自分自身のこともよく分かったのです。 生きているうちに、この土のぬくもりに出合えた夜は実に幸せでした。 (上毛新聞 2003年1月29日掲載) |