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◎"世界の小沢"らの古里 七十一年前の一九三二(昭和七)年三月一日、満州国が成立した。国際連盟は満州国を否認し、承認したのは十六カ国一政権にとどまった。日本の敗戦とともに満州国は消滅した。わずかに十三年半の年月であった。いまウィーンの歌劇場で指揮者として大活躍の小沢征爾は、もうじき七十歳になる。小沢は満州国が誕生した時から三年後の一九三五年に奉天(瀋陽)で生まれ、少年時代を満州で過ごした。 名前の征爾についてはいわれがある。征は板垣征四郎から征をとり、爾は石原莞爾から爾をもらった。板垣と石原は関東軍高級将校であり、満州事変を起こした張本人である。胆力の板垣大佐、知謀の石原中佐といわれたコンビである。征爾の父親、開作(一八九八―一九七〇年)は満州で歯科医院を開き、民間人でありながら満州国樹立を支援し、板垣と石原をこの上なく尊敬していた。 板垣は一八八五(明治十八)年、岩手県盛岡に生まれた。父親を征徳といい、地方の名士であった。板垣は仙台幼年学校を経て、一九〇四(明治三十七)年に陸軍士官学校第十六期生を終えた。陸士十六期生から異才が輩出した。知謀の三羽がらすは永田鉄山らであり、彼らは第一次世界大戦後のバーデンバーデン(ドイツの保養地)において、昭和維新(五・一五から二・二六事件にいたる国家革新運動)につらなる盟約を交わした。十六期生将器の三傑の一人が板垣であった。 群馬県出身の中島知久平海軍機関大尉は、一八八四(明治十七)年生まれである。彼らは同じ時代を生きたのであり、中島は政治家になってから昭和維新に共鳴した。板垣は軍事、内政両面で満州国の育成を図り、一九三八年には近衛内閣の陸軍大臣に就任した。これは石原ら日中戦争不拡大派の推挙によるものであった。しかし、戦争は泥沼化し、日本は破滅の道をたどった。板垣は極東軍事裁判で有罪を宣告され、死刑となった。 石原は一八八九(明治二十二)年に山形県鶴岡に生まれた。仙台幼年学校を首席で卒業し、一九〇九(明治四十二)年陸軍士官学校を卒業した。二十一期である。日蓮宗の信仰とドイツ留学で学んだ戦争史の上に「世界最終戦論」を築いた。その考えにもとづき板垣とともに、満州事変をおこし、満州国の建国をやりとげた。日中戦争の不拡大を唱えた。 満州国は八紘一宇、王道楽土、五族協和のスローガンにより、国民のエネルギーを結集しようとした。その国は多くの犠牲を生じたが、ここで生活し、命をはぐくんだ人々もいた。小沢は父親からもらった名前を大事にしている。自分の子供たちにも「征」をつけているからである。ホンダの吉野浩行社長は満州で生まれ、収容所で見た青い空を心に刻み、今や飛行機事業に進出しようとしている。トヨタの大野耐一は世界標準となったトヨタ生産方式を開発した。大野は一九一一年、満鉄勤務の家に大連で生まれ、まもなく帰国した。 満州国は偽国であり傀儡(かいらい)である。たくさんの犠牲を出して消えたが、遺(のこ)したものもある。この国の歴史はどう語り継がれるのだろうか。 (上毛新聞 2003年1月19日掲載) |