視点 オピニオン21 |
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◎タイムだけで決めない 記憶にとどめておいていただいている方もいらっしゃると思いますが、一九九九年から二〇〇〇年にかけての日本女子マラソンの話題であった、三人のシドニーオリンピック代表選手の決定について、私的な意見ではありますが、舞台裏を述べたいと思います。 私は日本陸上競技連盟の国際委員長という立場にいましたので、それらのレースをすべて現場にいて見ることができました。まずは一九九九年十一月に行われた東京国際女子マラソンで、山口衛里(天満屋)が二時間二十二分十二秒で優勝しました。当然、先の「オピニオン21」(昨年十二月十七日付)で述べたように、そのレースにはペースメーカーがいました。ペースメーカーの設定タイムは、前日に有力選手のコーチと強化関係者が集まり行います。当時、女子マラソンといえば二時間二十五分を切るかどうかが目安でしたので、ペースメーカーはその目標タイムに設定されていました。ところが山口選手側は、それより速くしてほしい、との希望を出したようです。案の定、山口選手は十キロも行かない段階でその集団を飛び出してしまい、そのペースが落ちることなく最後まで続いてしまったのです。結局、この東京のレースで二十五分を切り優勝して、シドニーオリンピック代表を目指していた多数の有力選手が脱落しました。 次に開催された大阪女子マラソンは、ルーマニアのリディア・シモンと弘山晴美(資生堂)の激闘になったのは記憶している方も多いでしょう。大阪は東京での山口の走りでペースを二十五分から二十三分に設定し直して、ペースメーカーが走りました。よってレースは三十キロまではシモンも弘山も飛び出さずに、そこから二人のマッチレースとなり、記録に関して弘山はシモンに負けはしましたが、二時間二十二分五十六秒で走りました。ペースメーカーの存在が予定通りのタイムを出した良例です。しかし、シモンに負けたということは、シドニーオリンピックで金メダルを目指す日本女子マラソン界では不安が残りました。 最後の選考会となった名古屋の高橋尚子は、大会当日が強風で、ペースメーカーが二時間二十三分の設定タイムをクリアできず、難しいレースとなりましたが、後半高橋はペースメーカーなしで、一人でスパートして二時間二十二分十九秒で走りました。こうなると、ペースメーカーのない「オリンピック」や「世界陸上」でも、自分でペースがつくれて二時間二十二分台が出せる山口と高橋は力がある、となります。 最後の一人は、ペースメーカーの存在がしっかりできたことにより記録が出た弘山と、前年の夏のセビリア世界陸上の銀メダルの二時間二十七分〇二秒の市橋有里(住友VISA)との比較になります。単純な二十二分と二十七分のタイム差では比較にならないということが、ここまでくれば理解いただけたと思います。両方の考えがあることは当然ですが、日本女子マラソン選手の最大のライバルはリディア・シモンであったので、市橋が選ばれたと理解しています。そして「オリンピック」のマラソンには、ペースメーカーがいないことも加味しなくてはいけません。 「オリンピック」や「世界陸上」は、スタートから選手の駆け引きを興味を持って見てください。その際に記録の誕生は難しいことも理解してあげてください。 (上毛新聞 2003年1月15日掲載) |