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◎淳真な心の持ち主 昨年十一月十日付で述べましたが、私は良寛の心に日本人が長い年月を費やして培ってきた日本人の心を感じるのです。私たちが受け継ぎ、伝えなければならない日本人の心と日本的情緒を感じるのです。良寛は生まれながらに淳真(じゅんしん)な心の持ち主でした。私はこの中に日本の心を垣間見る気がするのです。しかも、その心の内には常に熾(お)き火のようなぬくもりを保っているのです。広辞苑では、淳は情が厚く、素直で、飾り気がないこと、まじりけないこと、真は文字通り嘘(うそ)偽りのないこと、まこと、ほんとう、ほんもの、純粋とあります。淳真という言葉は辞書には出てきません。この二つの文字を結びつけて、生涯敬慕した常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)をたたえたのは良寛でした。私は良寛自身が生涯その心を持ち続けた人であったと思います。 良寛はその文学的才能を父、以南から受け継ぎ、その日本的な情緒は母、おのぶから受け継ぎました。さらに道元を知り、法華経を学び、常不軽菩薩の行を行じることによって、淳真な心が確固たるものとして身についたのでした。しかも、これが良寛の特徴なのですが、この心は地位の高下には無関係に人々に公平に注がれました。その発露は自然で作為が全くありませんでした。多くの場合は良寛自身、無意識の行為であったと思います。良寛は傾きつつある旧家の長男として生まれました。羞恥心(しゅうちしん)の強い、内気な少年、決して人の前面に出ることなく、読書好きで、ひっそりと暮らすことを好みました。恐らく感受性の鋭い、内省的な性格が原因していたのだと思います。まだ彼の心中の熾き火に気づかぬ人々は、そんな良寛を名主の昼行灯(ひるあんどん)と呼びました。この間に豊かな詩心と童心をはぐくんでいたのです。 少年時代、学問の基礎と学ぶことへの動機付けを、最初の本格的な師である大森子陽によって植え付けられました。良寛は青年前期は多感な、感受性の強い、現実からの逃避的な青年として育ちました。出家はその延長線上にある行為でした。円通寺のおよそ十年にわたる修行と、その後の約十年に及ぶ諸国行脚の生活が魂の鍛錬に役立ちました。その結果として他に優しい心は一層深まり、忍耐力と努力する力をも身につけました。温かい心に錬磨された繊細な感受性と、深い内省的な心並びに忍耐力が加わって、その心の中に生まれついての芸術的な天分を開花させていました。やがて良寛は帰郷します。道元の「莫帰郷(ごうにかえるなかれ)」の教えには従いませんでした。蝶(ちょう)が花に誘われるような帰郷でした。良寛自身、意識していなかったのでしょうが、詩人良寛には蒲原平野に帰る必要があったからです。童心や詩情をはぐくむには母性が必要です。蒲原平野の風土こそが良寛にとっては母性だったのです。今回は北川省一著『漂白の人良寛』のご一読をお薦めいたします。 (上毛新聞 2003年1月8日掲載) |