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◎知恵と勇気与えられる 過日、テレビでロシア映画の『戦争と平和』を見た。監督の名前も出演者の顔ぶれも、何十年ぶりということになる。 作品を読んだのはさらに昔で、五十年も前のことである。トルストイは、物語の後にエピローグを設け、「歴史的必然性」ついて説明していた。過去の歴史的事実を「必然」と決めるか、自由な「選択」と認めるか、ということについて言及している。「誰だって、あの時はああするよりほかはなかったはずだ。もし、自分がその立場だったとしたら、同じ決断と行動を……」という形で必然を強調して、結果を許客してしまうことの無責任さを警告していると思われる。 この必然は「絶対」という語で、日常的にわれわれに思考の中断を迫る。しかし、これを避けるために、責任をもって選択しようとすると「偶然」がやって来て混乱させる。これらに対しても、戦ってゆくのが人生かもしれない。 読書の世界でも同じことがいえると思う。本との偶然の出合いを一過性のものとして、忘れ去ってしまうか、立ち止まって、修正をしてゆくべきなのか、どちらかをわれわれは選んでいる。 読書には「心理的追体験」という表現があるかと思えば、「体験を予想する」という功利性のにおいがしないでもない言葉もある。 一般に使われている、この「体験」は「経験」という言葉に置き換えて考えてゆくべきであると、教えてくれたのが、哲学者の森有正である。『バビロンの流れのほとりにて』という作品の一部が高校の教科書に載ってい た。授業の下調べをしていながら、どうしても原文に当たりたいという衝動に駆られた。 独自な発想と、言葉を選びながらの叙述が新鮮に感じられた。そして、未来に向かって開かれてゆく「経験」は、一過性に過ぎない「体験」と区別しなければならないことをはじめとし、言葉の感覚に敏感であることの大切さを教えてくれた。 森はフランス政府留学生として、遠く遊学の途に就く。そして、規定の二年が過ぎても、なおパリにとどまり、デカルトやパスカルの研究に専念し、大学の教授よりも哲学への道を選ぶ。その学究的な態度に強く惹(ひ)かれ、わが心の師と思うようになる。 昭和五十一年の秋、森は孤独な魂の戦いを終え、今は静かに、パリ郊外に眠っている。生前、バッハの曲にも取り組んでいたが、そのパイプオルガンの奏でる曲は二枚のレコードになり、時には心を慰めてくれる。 そのころ、偶然にも長篇小説『背教者ユリアヌス』と出合う。森と交流のある辻邦生の作品である。 読書や思索を好みながら、書斎にこもることも許されず、政治の世界に身を置かねばならなかったローマ呈帝の苦悩に、限りない同情を禁じ得なかった。自然、愛読書も増えていった。 数年前の夏、軽井沢の高原文庫で講演会があった。その折に、親しくお話しする機会に恵まれたが、翌年には訃報に接することになってしまった。 敬愛してやまぬ人との別れは避けることのできない悲しみであるが、残された作品は座右にあって、生きる知恵と勇気を与えてくれるのである。 (上毛新聞 2002年12月19日掲載) |