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陶芸教室・赤城カルチャースクール清山主宰
清水 英雅さん
(富士見村赤城山)

【略歴】勢多農林学校卒。教員を務めた後、学校教材販売業へ転身。独学で陶芸を学び、1990年、現住所地に教室を開講。現在、前橋市内の公民館や老人福祉施設でも教えているほか、同市文化協会の理事などを務める。

2度の転機


◎道はおのずから開く

 私は赤城山中で陶芸教室を主宰し、門下生と日々作品作りに精を出している。人々は「第二の人生をこのようにすごせるなんて、よほど計画を練ってこられたのでしょうね」と言う。しかし、そうではない。こうなったのは、自分でも予期せぬ出来事が重なり合った結果なのである。

 今の世の中、一度就いた仕事とはいえ、自分の能力をより高く評価してもらうため、あるいはより自分に合った仕事を見つけるために、転職する人は珍しくない。しかし、私の世代では一度就いた仕事は一生で、この道一筋何十年とか言って称賛され、終わるのが普通である。

 私の場合はそうはいかなかった。学業を終えた時点で教職に就いた。体育科の教師だったが、当時は体育館などなく、毎日朝からずっと校庭での授業だったため、体を壊してしまった。寒風の中、腫れあがったリンパ腺を氷で冷やしながらの授業は、私に「やめる」という決断を下させたが、襲ってくる寂しさと不安は耐えがたいものだった。

 私にとって一度目の転機が訪れた。仕事をやめ途方に暮れたが、周囲の人々のアドバイスで教材、教具の販売という仕事をすることになった。慣れない仕事ゆえ、苦労も多かったが、教師時代の仲間の応援でどうにか軌道に乗り、次第に面白くもなり、やりがいにもなってきた。その上、いろいろな趣味に出合うという、うれしいおまけまであった。中でも陶芸と木彫はその奥深さにどんどんはまり込み、仲間同士で同好会をつくり、研究を深めていった。そのうちに成人学級を皮切りに、各地の公民館から講師として招かれるようになり、仕事の傍らとはいえ自宅には工房も構え、門下生と作品作りを楽しんだ。二十年、三十年と続けるうちにますます作る楽しさ、教える楽しさを実感していった。

 六十歳を過ぎたころ、世の中では生涯教育が叫ばれ、門下生の数も増え、作る作品もより高度になり、仕事の片手間ではすまされない責任を背負うようになってきた。もはや二足のわらじを履いている時ではない。自身の制作意欲の一層の高まりと同時に、暗黙のうちに「陶芸の世界に深く打ち込め」と背中を押されていた。

 六十歳をすでに過ぎていた私にとってしんどいことであったが、二度目の転機が訪れた。教材販売の仕事は息子に譲り、陶芸を主としたカルチャースクール「清山」を赤城山に開校するに至った。今にして思えば、私に二度の大きな予期せぬ転機が訪れた。身近な人々にとっては、度肝を抜かれるような転機だったに違いない。想像もしなかった人生を送ってきたおかげで、私は自分自身の降りかかる出来事に対して過剰に反応したり、憶病になったり、行く末を案じたりすることもなく、自然体で受け止める姿勢が身についた。自然体であるが故に道はおのずから開け、開かれた道には常に助けてくれる友がいた。

 現在八十歳を目前にしている私だが、今でも常に道が開かれることを信じ、新しい事にためらうことなく挑戦してしまう。こんな生き方ができるのはわれながら小気味良いと思う。予期せぬ転機に、今はただ感謝、感謝である。

(上毛新聞 2002年12月8日掲載)