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◎心のケアや感動求める 私が折を見て見にいく歌舞伎の中には、「旅」をテーマにした演目が少なからずある。「伊賀越道中双六」「蔦紅葉宇都谷峠」「敵討天下茶屋聚」等。そこで展開される物語は、思いもかけぬ人々との出会いと再会、敵討ちや御家の重宝探索がめでたく成就したり、時には陰惨な殺人が起こったりもする。喜劇といい、悲劇といい、本来自分が住んでいる居場所から離れて旅立つ時、そこからドラマが始まるということであろう。だからこそ、旅はよく人生そのものに例えられ、歌舞伎に限らず、他の演劇や映画、文学や絵画などの格好のモチーフになったのだと思う。幸も不幸も一寸先は不可知だという運命感。 無論、歌舞伎に登場するような前近代的な旅と現代のそれとでは、決定的な違いがある。前者は一歩わが家や故郷を踏み出し、目的地に到着するまで道中何が起こるかわからない。旅は行楽であると同時に、命をかけた危険と背中合わせのものでもあったろう。しかし、後者は全く違う。安心・快適・癒やしという、日常生活を離れて得る最高の、しかも手軽なレジャーとして位置づけられている。仕事や生活につきものの緊張や煩雑さにより傷つき疲弊した心のケアを人々は旅の中に求める。そしてさらに感動を欲しているのではないか。 しかし、情報や歓楽が氾濫(はんらん)する今、人々は本当に心から楽しむことを忘れている気がする。成熟した社会の弱点は退廃趣味と形式主義の病巣が発生しやすいことだ。内実を伴わないで、表面だけが美しく整った社会。そして人々はさまざまな場面でマニュアル化されたシステムの上だけで生息するようになる。知らないうちに感情や感動すらもつくりものになりがちだ。 例えば、サッカーワールドカップの好成績を受けて、多くの若者が道頓堀にとびこむシーンがテレビに映し出されたが、実はこの奇抜なパフォーマンスすら、とっさの感動表現ではなく、あらかじめ身構え、織り込みずみの行動だと分析する人がいたのはおもしろい。感動ですら「既製品」化しつつある現代。「幸福はできあいではダメだ。あつらえでなければならぬ」という古人の言葉が想起される。 観光業・サービス業に従事するわれわれは、人々に少なからず感動を与えることを天職としなければならないが、そのためには、常に自分自身を自然体に保ちながら鮮度を保つことが必要だと思う。見慣れた伊香保の石段街も、旅人にとっては実に不思議で魅力的な光景に映るものである。住民が玄関を出ると三百六十段の石段が広がる街の意外性。そこに生活する人間の息づかいと気さくな笑顔があれば、大げさな、これ見よがしの演出がなくとも、軽快でしみじみとした情趣が心にしみ入るはずである。そんな小さな情感の積み重ねこそ本当の心の癒やしと感動を生む原動力になる。 旅情も情緒も風情も、すべて人の「情」次第。品質主義を宣言し、文化創出型観光地を志向する伊香保は、人の心を支点とした感動のテコを、今ゆっくりと動かし始めている。 (上毛新聞 2002年10月23日掲載) |