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◎感謝の気持ち取り戻せ 人間は地上で営んできた文化の中で、水の恵みと力に対する深甚な感謝と畏敬(いけい)の念をもち、その思いをさまざまな形で表してきた。万葉集(巻十三)にこんな歌がある。「天橋も長くもがも/高山も高くもがも/月読の持てる変若水(をちみず)取り来て/君に奉りて変若得しむもの」。「天へと続くはしごがもっと長ければ、山がもっと高く頂きが天に達していれば、月の神がもっている若返りの水をとってきて、愛する人を若返らせてあげられるのに」というのが大意である。天照大御神の弟に月読という月の神がいるが、その神が変若水という不老不死の水をもっていたという神話を踏まえてつくられたものだ。 不老不死と水が結びついた話は世界各地に残る。その多くが、「太古には人は不死だった。それは神から若返りの水をもらっていたからだ。ところがある日、神の使いが人間に水を届ける途中、蛇がその水で沐浴(もくよく)してしまい、不老不死の霊力が消えてしまう。その水を飲んでから人間は不老不死でなくなり、蛇はいまでも脱皮をして若返ったような姿になる」というものだ。このパターンの話は、日本神話だけでなくギルガメッシュ叙事詩や、インドネシア・メラネシア神話にも残っている。 もう一つ、日本には禊(みそぎ=水で身をそそぐの意)という習慣があって、水は肉体の汚れだけでなく精神的な穢(けが)れも落とすと信じられていた。精神的に新しい自分になるということで、これも生まれ変わりと考えられるだろう。禊の習慣はいまでも形を変えて残っているが、もっとも身近なのがお清めで使う塩だ。塩は海の象徴で、かつて海水で禊を行っていたことの名残である。そのほかにも日常生活の中に、水への感謝と畏敬の気持ちは残る。たとえば産湯。これは新しく生まれ出た生命を祝い、再生された魂をことほぐための儀式である。そして死者の口にふくませる末期の水。神の世界に旅立つ前に、生の期間の穢れをとり、肉体は死しても魂は新しい世界で復活するという意味をもつ。 人間は水の恵みによって存在し、今日まで栄えることができた。そのことを昔の人ははっきりと認識していたはずだ。古代日本人は、水を生み出す山にも水が流れゆく海にも神が住むと考え、人間の世界は川のそばにあって、水が山から海へと流れていく間に恩恵に預かっている、と考えていた。ところがここ百年のうちに人間は水への感謝を忘れた。いまや人間は生きとし生けるものすべてにとってかけがえのない水を、取り返しのつかないほど汚染してしまった。宇宙のなかで例外的に生命の母となった稀有(けう)な星を狂わせ、果ては衰滅させてしまうという大きな罪を犯そうとしている。われわれはいま、地球の水のかけがえのなさ、ありがたさに感謝し、古代からそうしてきたように、水の尊さを畏敬する思いを取り戻さなくてはならない。 (上毛新聞 2002年10月20日掲載) |