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◎熱に思い出す師の怒声 スタッフT君から電話が入った。“明日私の打ち合わせ時間と台風のピークが重なりそうですので……”。交通機関が心配なので、どうも誰かと代わってほしいということのようなのである。“大した台風でもないのに、そんな話を聞く耳はない!”と怒鳴った。 大雪で都内交通がマヒし、歩き、乗り継いでやっとその家にたどり着いた日のことを思い出した。“当然来れないと思っていたのに、よくまあ……”と驚かれた。驚かれた私は逆に驚いた。吹雪、風雪にまみれて育った者にはこんなことは大したことではなかったからである。 “そうさせてもらっていいですか”と重ねて聞かれた。そんな話につき合っている暇はないから、自分で勝手に判断しなさいと私は応じた。 “わかりました。じゃあ、そうさしてもらいます” どうわかったのか、私にはもう応(こた)える気力がなかった。 白井研究所時代、風邪で四〇度程の熱が出たときのことが思い出された。 “今日は風邪で熱がひどくて……”。そう言いかけた私に、電話口に出た師から畳み掛けられた。 “熱? それがどうしたんだ。来るのか、来ないのか”。休ませてほしいとは言えなかった。三十歳ごろのことではなかったかと思う。腹が立つやら情けないやらで私は“これからすぐ行きます!!”と声を荒らげて家を出た。 研究所に着いて、懇々と諭された。“君たちは腹が痛い、頭が痛い、風邪をひいた。だから休むのが当然のごとく言う。なぜそうなったのか、なぜ風邪ひいたのかの反省がまるでない!” なるほどその通りだと思った。あの怒声が今も生きている。不思議なもので、以来二十五年間風邪で寝込んだことは一度もない。 高熱を押して出た翌日から白井晟一は寝込んだ。私の風邪が移ったのだ。人間悲喜劇、これくらいの喜劇もなければならぬ。 みんな出てきているというのに“あのう、今日、台風なので休みます”が過去にも一度あったらしい。身に染みた性格とは一事が万事、暑い盛りのある日、階下の仕事場に下りていくと、いやにスッキリした顔をしている。 “まるで風呂あがりのような顔をしているねえ” “ええ、さっき風呂いただきました” “風呂?” 仕事中の話である。こうしてT君は伝説の人となった。憎めない。天然色。 “明治は遠くなりにけり、だな” “そうです。明治は遠いです……” こんな時代、こんな飄々(ひょうひょう)とした人間がたまにいることが救いだ。 (上毛新聞 2002年10月16日掲載) |