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◎日常見つめ直す契機に こどもたちが作り上げた顔。泣いている。怒っている。目が三十個、口がない。これって何の顔? ときいたら、「自分」という答えがかえってきた。 顔を作ってみようと呼びかけて、この夏、桐生市内の公民館を巡った。材料は画用紙。画材は自由。 うまい技術や説得力のある動機などはない。ただ、その行為をおもしろがるこどもたちがいて、とりあえず私が自分で一個作ってみるだけ。一つ作れば、もう一個作りたくなって、いつも会場は大騒ぎ。 あす十四日からおこなわれる第四回有鄰館芸術祭のための作品制作活動である。 桐生本町一、二丁目の伝統的建築群の一翼、桐生市指定文化財「矢野蔵群」。「有鄰館」と呼ばれている。四つの会場の名もレンガ蔵・味噌(みそ)醤油(しょうゆ)蔵・酒蔵・塩蔵とユニークだ。 まず、どの蔵も、なかには何もない。あらかじめステージやギャラリーの用意はない。だから主催者は、ひょいときて何かができるわけでなく、ここを生かすスタッフの陣容から考えなくてはならない。つまり、どの事業も、そのたびに、場と格闘し、人と関係を築くこととなる。 つまり有鄰館のおもしろさとは、人と人とのかかわりのおもしろさであり、それがよく見える環境であることなのであろう。 今回の芸術祭は、群馬県内のアーティスト、特に若い世代の出品する企画と、市民参加型、すなわち前述の仮面作りの企画とが、有鄰館の空間を彩る。さまざまな動機、多様な表現形態がぶつかり合うことが眼目ではあるが、と同時に、有鄰館の機能や魅力を引き出し、ここに作品を展示するという行為そのものが、アート、ひいては私たちの日常生活を見つめ直す契機となり得るのではないか、というのが私の考えだ。 いうまでもなく、わたしたちの日常は、どんな状況でも続いていく。日々の暮らしをやりくりするというのは、書いてしまえばわずかなことであるが、これは、たいへんなことである。 そんななかで、社会参加、とくに自分たちの豊かさとは何だろうか、という視点からの行動は、なかなか表現しにくい。 しかしながら、とりもなおさず、自分の社会は自分たちの意思で豊かにしていかなければならない。 何もない空間に、自分たちと同じ日常をそのままに表現する作品が並ぶ。期間中、会場では来観者が実際にみずから仮面を作ることもできる。「参加」すること、そのことそのものが芸術祭の一角を豊かにし、オモシロくする。 つまり自分と自分につながる人々との関係をまさしく「目に見えるもの」にするのが、有鄰館でこそなしうる活動であり、私が芸術祭で表現したかったことである。 さぁ、どんな展覧会になりますか。この記事をよんでいらっしゃるあなた。ぜひおでかけください。それがもう「アート」なのです。お待ちしています。 有鄰館芸術祭は二十三日まで。入場無料。各種イベントあり。問い合わせは大風呂敷(電話0277・44・3966)へ。 (上毛新聞 2002年9月13日掲載) |