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◎言葉を磨く時代の証人 かつて自称したことはないのだが、いつからか「詩人」と呼ばれるようになった。そこで「詩人とは何ぞや」と自問したりする。ところが簡単に回答が引き出せない。詩を書いているから「詩人」かというわけにはいかない。そもそも「詩」という文学の一形態がただ者でない。小説を書く人を「作家」と呼ぶことは抵抗ないが、同じ文学でも「小説」と「詩」ではいささか内容が違う。 まず「詩」は文学のエッセンスだということだ。言葉を磨いて極限的に純粋な姿で表現するのが「詩」である。言霊(ことだま)というが、人間の心や命につながる、生きた生命感、いわゆるリズム感が求められるのが「詩」である。日本にはその原型といえる万葉集という古典がある。 短歌も俳句も同じ短詩型と呼ばれるが、私たちが書いている「現代詩」は同じ短詩型ながら、純粋な叙情のほかに、さらに新しい「知性」が求められる。日本は明治以来の近代化の中で、短歌や俳句で表現できない、新しい西欧の精神文化と共通する、新しい知性の表現のため、近代詩、現代詩を生み出してきた。これは時代の、歴史の水先案内人的な、新しい言葉による、文学表現の創造ということだ。古い言葉で古い形式で表現した作品は「現代詩」とは呼ばない。 例えば、明治末年から大正期、群馬の先輩詩人、萩原朔太郎、大手拓次、山村暮鳥、萩原恭次郎らは、それまで日本にはなかった新しい言葉と表現で、「近代詩」を創造して、文学史に大きな足跡を残した。 世界は絶えず進化流動する。その時代と歴史の流れを敏感に受け止めて、言葉の先駆者として、しかも人間として正直に謙虚に生き、時代の証人として新しい言葉を、多くの人々の共感を呼ぶような作品を書く者を「詩人」と呼ぶ。だから「詩人」と呼ばれることは、決しておろそかにできない責任がある。私も世間から「詩人」と呼ばれて、このままで良いのかと戸惑う。 いま一番心を痛めていることは「現代詩」が市民権を失い、多くの人々に読まれていないことだ。言葉の技法のみ追求して、レトリック過剰のため、現代詩は難解の袋小路にはまってしまっている。一握りの書き手同士の仲間社会が生じている。 私は「詩」はまず原点に戻ることが必要だと思う。普通の人間として市井の生活者として、まず人間を大切にするヒューマニストであること。世の中の流れには敏感で、反戦平和の主張は明確に、政治の反動や社会の腐敗退廃をはっきり批判して、不正を正す言葉の表現者でありたい。 そして美と文化、世の中を明るく豊かに楽しめるように、ボランティアにも貢献する。視野を広く地球人でもありたい。そういう日常の地道な生活の中から、多くの人々の心に響くような、リアリティー豊かな言葉で「詩」を書いてゆきたい。 そんな自問自答をしながら、いまは酷暑の夏、去る戦争につながる心痛む日本の夏を、傍らの夏草に語る思いで過ごしている。 (上毛新聞 2002年8月17日掲載) |