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郷土史家 大塚 實 さん(箕郷町生原 )

【略歴】1934年箕郷町生まれ。小さい農園を耕しながら自給自足の生活をして、健康の維持にも努めている。96年から日本野鳥の会会員で、探鳥会に参加している。98年から箕郷町文化財調査委員。

古い農家



◎作業がしやすく機能的

 箕郷町の小学校の副読本にながいこと「古い農家」として写真が掲載されていた家が最近取り壊されたので調査・記録を試みた。

 樹齢三百年と言われたツゲの木や、兄弟で土地を分け合った隣家に県内でも最大級のケヤキがあったが、日光の新しい五重の塔つくりに利用されたと聞いているので、この木が植えられたころから家があったとすれば、確かに古い家だ。また隣家のおじいさんは文久年間生まれで昭和二十六年まで健在であったが、「この家は生まれたとき見た様子と少しも変わっていない」と話していたそうだから、確かに古い。

 また戦時中、隣組を通して日本刀を五振りくらい<当時の言葉で>供出したが、相当古いものがあった家だ。改築の余裕がなく火災に遇わなかったことと、住み心地がよかったことが今まで家が残った理由と考えられる。

 この家は米麦つくりと養蚕を行ってきた。家の構造は、奥座敷二部屋のうち、北側には床の間と押し入れ、南側にも床の間があり、この二つの部屋の間に四枚と、さらに奧の部屋との間に二枚の唐紙(を張った襖=ふすま)の裏表にぼだい寺の住職によって家の歴史が筆字で記されていた。

 奥座敷二部屋と表座敷二部屋の間はオビド<帯戸>で仕切られ、表座敷の一部屋にはお茶を飲むためのお湯を沸かすためにドウコ<銅壺>を入れた箱火鉢などが置かれていた。

 家の半分を占める東側部分は幅三メートルほどのアガリハナ<上がり端>があり、その一隅に囲炉裏(いろり)がつき、続く土間にヘッツイ<竈>があった。大黒柱は土間の中心にあったが、ここの南側にトボグチ<外面口>と北側にセドグチ<背戸口>があった。

 さらに東側土間部分の上に中二階があったが、北半分が低く南半分が高くて、広い二階部分と、大きな物の移動がしやすく、中二階が階段の役割を兼ねていたことに最近気づいた。

 土間の南側に、四枚の格子戸と障子は取り外しが簡単にでき、トボグチは幅三メートルほどの引き戸で広く開けることができ、小さなクグリド<潜り戸>がついていた。

 これまで記述した間取りを中心に、西側にオクリの部屋と便所、東側北に馬小屋と、南側に格子戸付きの糸取り場があった。家の後ろは竹林、西は樫(かし)ぐね、東は繭の乾燥場、南に蚕室があった。門の東側に納屋があるが、そこには昔、「糸取り場」があったという。この調査中に、「糸取り」をすすめたという人の子孫が教えてくれた。今でもその人の家には高崎の生糸取引所で使われていた机があるそうだ。

 今でも藏の中などに座繰りが百基以上もある理由が分かった。竹林の中に低温で蚕種を保存するため二つの四畳半くらいの地下室があった。

 関東大震災などにも耐えてきた家であるが、取り壊した跡には、糸取りのために大きめにつくったという井戸があるだけだ。

 上州人は「無智また無才」(内村鑑三)と言われるが、単純で開放的な家屋構造と神戸・長崎などに残る外国人の家などを見ると、上州人の知恵が足りない部分もあったと素直に受け入れられる思いもあるが、土間・アガリハナ・中二階構造などの機能性やかやぶき屋根、破風の開閉による空気の循環により室内が適温・適湿に保たれ、職住を兼ねた家として、優れた建築構造をもったものとして見直している。

 養蚕・糸とり・樫ぐねなど普通の家の事物の中に郷土の歴史がある。


(上毛新聞 2002年8月7日掲載)