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高崎周辺ダウン症児・者とともに生きる まゆの会代表
濱村 泰明 さん
(高崎市昭和町 )

【略歴】前橋高校、千葉大学人文学部国文学科卒業。東京都内の出版社勤務の後、フリーランス・エディター(書籍編集業)になり、現在に至る。高崎に居住して8年。子ども3人の父子家庭。

車いすと道路



◎自動車優先の造りだ

 脳性まひによる肢体不自由の俳人花田春兆さんの『日本の障害者』によって知ったのだが、江戸時代の『北斎漫画』(一八一四年刊行)に「いざり車」が描かれている。「腰を乗せる板に太い丸太を輪切りにしたと思われる車輪を取りつけた四輪車」で、「車輪の小ささから現在の車いすのように直接車輪を回すのでなく、棒などで地面を突いて進んだようだ」。

 さらに、氏は十三世紀末の『一遍聖絵(ひじりえ)』にも「いざり車」らしきものが描かれていると指摘、もしかしたらこれが日本の車いすの最初かもしれないといわれている。

 『一遍聖絵』には「さらに驚くことに、草ぶき屋根の粗末な小屋ながら、なんと分厚く大きな木製の車輪を付けたものが描かれている。(中略)これも布教の旅・行脚に従う病人や障害者のために特に作られたものとみることはできよう」。また、室町時代の謡曲『弱法師(よろぼし)』にも「足弱車」「片輪車」という足弱(障害者、老人など)用の車が出てくる。

 当然のことながら、当時の道路が舗装されているはずもなく、タイヤもない丸太の箱車は、乗り心地がよいはずはなかったろう。が、戦乱や病気などにより、肢体不自由者は今よりも多かったと思われ、往来をつえで箱車をこいで行く光景は、さほど珍しくなかっただろうと想像される。また、道路は今想像するよりも移動しやすかったのだろうとも思われる。ともあれ、古くから障害者のための工夫が施されていたことに驚かされる。

 さて、現代。高崎市では駅前から新市庁舎前を通って北へ約二キロほど、道路が改装された。電柱は撤去されて電線などは埋設され、歩道はカラー舗装され、点字ブロックも設けられて、一見バリアフリー化が進んだように見える。しかし、一度車いすに乗ってみるか、目を閉じてつえをもって歩いてみるとよい。歩道は数メートルおきに、自動車乗り入れ用の傾斜が付けられている。車いすでそこを通ると、車道へ向かって降りていく恐怖感を覚えるとともに、倒れるような感覚をも感じる。

 また、横断歩道と車道との間には必ず数センチの段差が付けられていて、これを乗り越えるのは困難であり、越えられたとしても大変な体力を要する。点字ブロックも同様で、横断歩道には何のマークも付けられていない。そして、最も歩行者が多い繁華街は、旧来同様の細い歩道があるだけのところも多く、車いすでのショッピングなどは難しい。

 これは、本県は自動車の世帯当たりの保有数が全国トップクラスという事情があるにせよ、相変わらず自動車が優先されているためだ。市街地の道路を考える場合には歩行者優先という原則をとるべきで、例えば外国の都市などに見られるように、凹凸を付ける、ジグザグにするなど、あえて自動車を走りにくくすることを考えてほしい。こうすることで逆に自動車の通行量を減らすことも可能だと思うのだが。

 (注:「いざり」「片輪」などは差別用語とされているが、氏の著書の通りとした)

(上毛新聞 2002年7月13日掲載)