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◎紫煙なくなる日近い? 「煙草(たばこ)話」とは、煙草を吸いながら話をすることであるが、転じて閑談の意に用いられる。島崎藤村も「たがひに胸襟をうちひらきての煙草話、時にとりてはまた心に愉快ならずや」と肯定的に使う。十六世紀の伝来以降、文学作品にも煙草はしばしば登場するようになる。徳川幕府は十七世紀初頭、いくどとなく禁止令を出す。いわゆる「煙草法度」である。 「酒法度たばこ法度や春の雨」の句も残る。それでも、庶民のささやかなし好品として定着し、韻文・散文を問わず、文学作品中の小道具にもなっていく。「煙草銭」「煙草休み」など熟語化し、「煙草」は「ちょっとした」「わずかな」の意を持つ修飾語にもなった。 ところが平成のこの時代、愛煙家の生存権はまさしく煙草の煙のはかなさである。学会で、京都の名門女子大に訪れた折、喫煙所を探すと、講義棟から遠く離れたプレハブの狭い建物があてがわれていた。中へ入ると、これがものすごい。煙草の害を書き立てた新聞、週刊誌、医学誌の切り抜きが壁中に所狭しと張ってあった。肺の写真から、美容や胎児への影響やら、何でもござれで、この部屋で煙草を吸える女子大生がいるのかと、当局の脅迫にも似た慈愛と喫煙者のしたたかな無神経の双方に感嘆した。 500系のぞみができたころ、早速同僚と予約し、岡山から東京まで乗車した。なぜか二人とも伏流煙に酔った。車両の構造的な欠陥と言えよう。同じことは長野新幹線にも言える。700系のぞみや上越新幹線に比べ、スピードが売り物の車両は煙の流れに対する配慮がお粗末である。新幹線通勤の身にとって、長野新幹線の喫煙車両は通り過ぎるだけでも地獄である。ここで煙草を吸える愛煙家は、もはや驚嘆を突破した畏敬(いけい)さるべき存在である。 勤務校は、一昨年の夏休み明けを機に全館禁煙となった。研究室は例外と高をくくっていたが、建物内は一切禁煙となり、喫煙は屋外の喫煙エリアのみとなった。 わが国では一九〇四年以来、間接税の面から言えば、国是であったはずの喫煙が、百年もたたずに、完全に悪者と化した。製造販売愛煙の立場からすれば、この状態はファッショに等しいと思われても仕方がない。それでも、映画での喫煙シーンを禁止したロシア、何かと過剰な反応を示すアメリカに比べれば、わが国の状況は穏やかかもしれないが。 心地よい一服と清浄な空気、喫煙者・嫌煙者の両者を尊重した分煙こそを推進すべきだと思うのだが、その実現よりも煙草がなくなる日の方が早いかもしれない。文学作品に表れるあの小道具は、一体何かと質問される日も遠くないことだろう。 禁煙車通勤を始めて二カ月余り、折しも、上越新幹線東京駅ホームの喫煙コーナーも削減された。車両がめったに停車しない高崎寄りの一カ所のみである。煙に敏感になった昨今、ちょとした「煙草話」まで。 (上毛新聞 2002年6月10日掲載) |