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渡良瀬川研究会代表幹事 布川 了さん(館林市尾曳町 )

【略歴】早稲田大学卒。鉱毒事件と田中正造の研究、普及を志して、渡良瀬川研究会を結成。鉱害シンポ、サケの放流、足尾植樹、谷中村遺跡を守る会、田中正造生家を守る会などの運動を進めている。

足尾の山に植林


◎本県からも大勢参加

 四月二十八日は晴天で、煙害のために荒廃した足尾の山に、去年よりさらに多い人々が植樹しました。群馬からも、栃木に劣らず大勢参加しました。私も、五歳の孫と楽しくその中に入りました。大畑沢のメーン会場からは、昨年植えた木々も見えました。

 「わたらせ未来基金」のグループに誘われて、さらに奥の安蘇沢国有林に分け入りました。石まじりの傾斜地に穴を掘り、鉱毒事件で滅ぼされ、今は渡良瀬遊水地となっている所から運んだ黒土を、たっぷり入れて、コナラやクヌギの苗を植えました。さらに土が流れないよう、遊水地のヨシで覆い、シカの食害を防ぐネットを張りめぐらして完了です。

 立松和平さんが書いていました。『私たちは田中正造の思想と行動に深く共鳴し、表土さえも失われた足尾の山々に植林しているのだ。田中正造の願いは、渡良瀬川源流の山々は、保水力のある森が戻ってきた時に、本当に遂げられるのであろう。今年も足尾の山に植林できることを喜びと思い、できるだけ多くの人々に参加を呼びかけました』(「下野新聞」四日一日付)。

 そして、地球の温暖化を防ぐために、できることは、どんなささいなことでもやらなければならないからだともいいます。来年は、もっと多くの人が登り、緑はより広がることでしょう。

 かつて鉱毒をなくすために「足尾銅山鉱業停止請願事務所」を、館林市の雲竜寺に設けて、大押出し(大挙請願行動)を繰り返しました。正造は、命をかけた天皇直訴をしました。太田市の毛里田地区では、鉱毒根絶運動を続け、銅山に加害を認めさせたのが、一九七四(昭和四十九)年でした。私たちは「渡良瀬川鉱害シンポジウム」を始めて、今年で三十回になります。また「足尾に緑を、渡良瀬に清流を」願って、「サケを放す会」を始めて二十年になりました。

 大畑沢からは、眼下に銅山の製錬所が見えます。煙はほとんど見られなくなりました。経済的事情からか、鉱業停止になりました。けれど、さらに上流の松木渓谷にある銅山の堆(たい)積場下流で、高濃度の汚染土があることが分かりました。二○○一年五月、杉浦公昭東洋大学工学部助教授が調査した結果では、本山排水口で乾燥重量当たり二〇〇〇〇ppm、中才浄水場付近六○○○ppm、草木ダム下流でも、通常濃度の十倍でした(二○○二年三月六日発表)。

 渡良瀬川鉱毒根絶太田期成同盟会長板橋明治さんは「汚染対策について多くの人に、あらためて関心を持ってもらいたい」と訴えています。四月二十九日も快晴で、私たちは渡良瀬川最下流の埼玉県北川辺町で、フィールドワークをしました。予想以上の参加者が、明治時代に納税徴兵拒否することで遊水地化を阻止した場所を見て回りました。

(上毛新聞 2002年6月8日掲載)