視点 オピニオン21
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対照言語学者・ブリッジポート大学客員教授 
須藤 宜さん
(高崎市上中居町 )

【略歴】群馬大卒。東京教育大研究科、ユニオン大、立教大大学院をそれぞれ修了。教育学博士。大学教授を26年間務め、現在米国の大学の客員教授。著書15冊、共著3冊、論文28編。

「学ぶ」ということ

◎生きるための力を習得

 多くの教師は、教科書の知識を教えることが教育だと思っている。しかし果たして知識を伝えることだけで十分であろうか。

 生徒の視点から「学ぶ」ということを考えると、よりよく生きるための力を身につけることになる。それは単に知識を得ることではなく、自ら考え、表現するための能力を習得するところにある。

 どうも教師は、教科とのかかわり方を知的にとらえ過ぎる。情操を培うようなかかわり方へと転回しないと、生きる力のもとである感情や感動は育たない。見たり聴いたりした時に起きる感動こそ積極的な意欲を生み出す原動力となるのだ。教師が与えるべきは、個々の情報ではなく、生徒に強い関心を持たせ、やる気を引き出す刺激だ。生徒の心が動かなければ未見の能力は芽生えない。

 私は英語母語話者の英詩朗誦(ろうしょう)に感動した。英詩の言葉が幻想的な調べへと昇華されていた。音吐朗朗たる声の朗誦を聴けば、心が高揚し、言葉が人間の深いところに根づく。教師は、生徒の琴線に触れるものをいかに伝えるかに腐心せねばならないが、英語母語指導者でも情操の教育はしていない。

 大学の英語の指導で私はまず英詩を朗誦する。イギリス・ロマン派の代表的な詩人、ワーズワースの「水仙」を、英語国民の心をとらえて伝える。そして学生にもリズムに関心を持たせ各自に暗誦させる。この詩は、島崎藤村の「初恋」とほぼ同数の音節からできている。学生の中には努力を厭(いと)い拒否反応を示したり、暗記同様に知識の詰め込みだと反発する者もいる。しかし、周りの者に影響され次第に声を出すようになる。そして、いかに言えないかを知り本気になってくる。

 「学ぶ」ということは、型を習練して己の技として身につけることでもあり、意欲に裏打ちされた着実な努力が欠かせない。

 平成十三年度、大学での私の英語指導を紹介する。学生には、教室外の学習として暗誦用に作製した米人吹き込みのカセットテープを渡してある。授業はその練習状況をとらえながら進めてゆく。

 学生は三十六人。練習してきた英文をテープの指示に従って言わせる。十分ほど時間を与え練習させたところ、残念なことに並んでいる二人がケータイを操作し始めた。私は「バカ者!」と、一喝した。すると途端に目の色を変え、見違えるようになった。

 英文が完全に言えたのは三人だった。私はうれしくなり握手したら手が汗ばんでいた。しかし七人の学生は全く言えなかった(ケータイの二人は含まれていない)。次の学習があるので、これらの学生を授業後に残した。このうち二人は何度繰り返しても言えなかった。学生には、こうした経験はないのだ。何度もさせられているうちに涙ぐんでくる。しかし、困難に打ち勝つ努力こそ真の生きる力である。

 教師が情操豊かに指導すれば、生徒は必ず意欲を示す。また、達成への誘いも不可欠だ。



(上毛新聞 2002年5月15日掲載)