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◎生物にはみな熱い血潮 「桜の樹の下には…」。皆さんは、この文章をご存じでしょうか。もし、知らないとしたら、この文章の続きをどのように結ぶのでしょうか。私は、桜ほど日本人の心に残る花はないのではないかと思います。個々の記憶の中に、印象的な風景や思い出がよみがえってはきませんか。私は、桜がちらほらと咲き、春が訪れようとするころ、きまってある二つの文章を思い出します。 一つは、冒頭の一文です。「桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!」。これは、三十一歳という若さで死去した作家、梶井基次郎の短編小説の書き出しです。 初めてこの文章を目にした時、私はぞっとしました。あまりに見事に桜が咲くのが信じられないから、桜の木の下には死体が埋まっていると。当時の私には理解できない発想で、「なんで、桜の下に死体なの? あんなきれいな桜の木の下に死体だなんて」。私は、なんともいえぬ衝撃を受けました。檸檬(れもん)を爆弾にみたてるなど、鋭い感性の持ち主である梶井らしい表現方法なのかもしれませんが、なんとも怪奇な一文です。しかし、最近、この文章が少し理解できるような気がしてなりません。 二つめは、中学の教科書の一番初めに掲載されていた大岡信さんの随筆です。桜の木の皮を煮出すと、鮮やかな赤い、濃いピンク色になる。しかし、つぼみや花の色は、あの淡い薄いピンク色であると。確か、染織家の志村ふくみさんとのお話のところで、桜は、花が咲く前に、幹も枝も全身でピンクになって、花を咲かせるのに全力を傾けるのだというような部分が出てきたように思います。 私は、この、やけに印象的なきれいな文章と生々しい鮮烈な梶井の文章を、毎年、桜の時季になると思い出します。そして、最近、私の中で、この二つの文章が微妙なニュアンスを織り成しています。言語聴覚士として働いている私にとって、日々の臨床の中での、植物の存在は偉大です。たとえ言葉をしゃべることができない方でも、一輪のバラを見るだけで、ずいぶん表情は変わります。ましてや桜ならかなりのものです。コミュニケーションをはかるうえで、非言語的な存在は大切なのだと、あらためて考えさせられる毎日です。 それゆえ、私は、桜も人も同じような存在なのではないかと思うのです。この世に存在するあらゆる生物にはみな、熱い血潮が流れているのではないでしょうか。 こういう表現が適切だとは思いませんが、私は、桜も人も、造花やオブジェのように変化なく、一生ずっときれいなままの形而下的な存在ではなく、ある意味、短命で、生々しく、時には醜く、汚くならざるをえない形而上的な存在であるのだと思います。一時の盛りを目指し、咲き誇れるよう、日々を送っている存在なのです。 つまり、染色の際に煮出した桜の幹の色は、人の血の色であり、桜全体の美しい姿は、個々人の醸し出す雰囲気(オーラ)といえるのではないでしょうか。もっというならば、人の姿には、その人なりの選択があり、その人らしい人生の歩みが積み重ねられている。それがオーラとなって、桜のごとく全身からにじみ出ているのだと。私は、患者さんと接する中で、そんなふうに考えるようになりました。 終わりに、私もいつの日か満開に咲き誇り、西行の歌のごとく、余韻を残して散ることができるよう、毎日を過ごしていきたいと思っております。 「願はくは花のもとにて春死なむそのきさらぎの望月のころ」 (上毛新聞 2002年4月22日掲載) |