視点 オピニオン21 |
■raijinトップ ■上毛新聞ニュース |
|
|
◎サービスには負担必要 桐生市広報広聴課の事業である「市民の声の会」会員としての任期は、行政と市民の協働を念頭に活動することを求められた二年間であった。振り返ってみると、協働らしい事業をすることにとらわれ過ぎたように思う。市民側とすれば、協働とはどのようなことなのか、イメージがつかめていない。協働とは何か、どう進めればよいかを、もっと掘り下げて考える必要性を感じた。 日本において国民は、国(日本では実にあいまいな概念であるが)の指図に従うことを求められてきた。昭和二十年以降、民主主義の名のもとに国の運営が行われてきたが、実際には官僚主導の継続であった。国民の政治参加は選挙による議員の選出という手段によるが、選ばれた議員は再選のために地元の利益を最優先に活動し、日本中を疑似東京にするべく努力をした。 その結果、日本のあるべき姿についての議論は、二の次となってしまった。県や市町村もその縮図であり、同じような状況に至っていると思う。現在日本国民は、国や自治体に任せきりにして、たまった付けの支払いを、もはや先延ばしにできない所まできたのである。それがいわゆる痛みなのであるが、国民はいまだに国や自治体が負担してくれるものと錯覚している。本来の民主主義という制度に国民の意識が追いつかなかった結果であろう。民主主義の良い所取りをして、社会主義的平等を目指した日本国には、もはや残念ながら負担力はないと思う。 住民自らが社会の一員として受けたサービスについて適切な対価を払い、市民の義務として自分ができることを公のために行うことが必要な時代の到来である。桐生市のバスについて調査した際、「ただであることよりもサービスが維持されるためなら負担が必要」という意見があったことは重要である。戦後教育は、国家や公のために行動することを国家主義と決めつけ、良しとしない不完全な個人主義を教え込んだようである。 市民と行政の協働を実現するためには、自らの役割を自覚した市民を育てる仕組みが必要であると思う。これからは社会を構成する個人が自分の仕事ではもちろんのこと、それ以外に可能な社会貢献を実践しその活動により、その社会での存在を認められる仕組みが必要ではないだろうか。 また、行政側にも市民と協働するために求められる条件があると思う。従来の行政には、形だけ民間の意向を聞く審議会や、組織を盾に責任をあいまいにする姿勢があったと思う。協働に当たっては、行政側も市民も、いわゆるあて職による形がい化した仕事を行わないように、責任が明確になる形で取り組む仕組みづくりが必要であると思う。 役所だけでできる仕事には限りがある。計画を本当に実現するためには、予算消化を目的としない着実な仕事が必要である。その仕組みをつくり、実践することによってのみ他地域と差別化したまちづくりの可能性が出てくるのではないであろうか。 (上毛新聞 2002年4月16日掲載) |