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◎公平は無条件に「善」か 芸術文化は人間の生死、経済活動にあまり影響ないと軽んじられる風潮があるが、果たしてそうだろうか。先人は道路を整備し、車の安全性を飛躍的に高め、医療・福祉保障および各種社会資本を整備してきたはずだった。しかし、交通事故死亡者数一万人に対し、自殺者数が三万人を超え、凶悪犯罪が急激に増えている。われわれの命や財産を守るモノは、既に「社会基盤の充実」ではなく、今や「精神整備」に移行したことを認識すべきだろう。 不条理の絶望から立脚するには、若く健康で知的武装された多くの人材が望まれる。知への欲求は、すべての人間に生来備わっている、とアリストテレスの『形而上学』でも述べている。ユートピア(理想社会)的発想だが、子孫へ美しい未来を引き継ぐためにも、創造性と自己規律により、一人一人が自己を管理する「地球規模の知識社会」が必要だ。そのためにも、人材の源泉でもある地域社会を形成する手段として「文化・スポーツ活動」の重要性が、当然のごとく増加すると推測できよう。 文化スポーツ施設という空間は、世代や人種を超えたさまざまな人が集い、他人同士が出会うサロン(社交場)である。時に人々が一つのモノをつくり上げる作業場となり、時に高い感受性を備えた芸術家の作品や、極限を超えた人間の潜在能力に接する場ともなる。ルソーの『社会契約論』的思考を使えば、人間が自然状態から社会状態に移る過程で、社会契約の本質的諸条件を生み出すきっかけづくりの場とも言える。つまり「生命に触れる場所」、それが施設本来の機能であり、存在理由でもある。もしこの施設が正常に機能すれば、生きがいと健康な体を保証し、地域や社会が抱える諸問題を一気に解決することも可能だろう。 そうしてもう一つ、公共施設には住民参加・ボランティア・ネットワークの三種の神器が必要だと識者の間で言われている。私はもっともであると認める一方、公共性には欠ける「器」であると認識している。例えば、住民参加型事業・ボランティアと言われるものは、参加者だけが楽しいという現実がある。明らかに公共性に欠けている。しかし、万人に公平・平等ということは無条件に善なのか。現在の社会の仕組みの中では、どんな場合でも公平の背後に既得権者が存在する。資本主義社会では、不公平を生み出してしまうことを容認すべきであろう。要は公平基準の観点を変え、時代に合った新しい不公平や階級に適応することにより、豊かで住みやすい社会を創造することだ。 万人の公平と規律を重んじるあまり、本当の利用者に不公平感を与えることの方が悪である。確かに基本的にはルールが必要ではあるが、law(法律)の語源はlay(置く)であるように、ルールは生まれた瞬間に老化する。新天地を求めて海外へ飛び出した、若く才能ある運動選手や科学者たちの活躍は喜ばしい半面、この国が抱えてしまった病巣を見るようで、早くなんとかしなければと焦燥感すら覚える。 (上毛新聞 2002年4月14日掲載) |