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◎自由と自主性が原点だ 昨秋、群馬県で国民文化祭が開催された。地方文化の掘り起こし、その発表の場を与えたことで成果を果たしたと言えよう。全国持ち回りという国の文化行政の意味も否定はできない。 十一月四日から十一日まで全県下の市町村で多彩なイベントが開催されて、参加に迷う場合もあった。私は地元の富岡市の「童謡の祭典」と前橋市の「現代詩」部門に会場参加したが、例えば赤城村の三原田の農村歌舞伎など幾つか貴重な種目に、期日の制約で参加できず残念であった。 開会行事の在り方も気になった。雨の中で内容的には国民文化祭の名に恥じない内外のアーティストたちの演技は素晴らしかったが、司会者になぜ中央の知名の俳優さんの男女ペアを充てねばならなかったのか、とくに群馬と関係の深い人たちとは思えず、ギャラも相当だったと思う。 ギャラといえば、あの国民文化祭に要した費用は巨額であったろう。国の指示で行う文化行事には費用金額を惜しまないが、日常の地道な県民の文化活動には意外に冷たい現実がないだろうか。 ここで文化の原点について考えてみる必要がある。というのは最近の行政と文化の関係に、行政主導という傾向があるからだ。教育行政として生涯学習教育があるが、県と市町村の末端まで生涯学習センターが設置されている。また文化協会なる市民文化の組織化も徹底して、行政主導の文化活動が行われる。 それを悪いと決め付けるわけではないが、行政が金も口も手まで出して、文化イベントを計画して、市民住民がそれに乗せられて動かされているというのは、本末転倒で、愚民政策につながりかねない。 文化とは本質的に市民住民の自発的、自主的な知的エネルギーが基本で、そのためにはまず自由の精神から始まる。行政や権力には批判的な、民主主義を生み出すことが目的で、形式的権力主義に従うことは文化の本質に背くのである。 例えば戦前の文化や文学は、国家権力と対立して、むごい弾圧が加えられた。戦時中も文化統制に屈した文学者は戦後厳しく糾弾された。戦後も六十年安保までは文化は保守勢力とは対立関係にあった。 伝統文化、農村歌舞伎や獅子舞などは草の根の庶民が全く自主的に生み育ててきた。群馬は近代詩に萩原朔太郎をはじめ詩人を輩出しているが、彼らもまた貧困放浪の生涯で行政の庇(ひ)護等全くなく、自由の精神の所産として後世に残る作品を書いている。私たちが今、同人誌を身銭を切って出し作品活動をしているのも、自由であると同時に、無償の行為としての誇りからである。 行政主導でなく、本来の市民文化を育てるために、行政は資金面、側面からの支援はしても、口も手も出す行政主導にならないように望みたい。文化の原点である市民の自由と自主性を尊重して、草の根市民文化を育ててほしい。 (上毛新聞 2002年3月24日掲載) |