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◎社会の主流に堂々参加 東京福祉大学の学生が、養護学校でボランティア活動をしていて、ある日非常に傷付いて私の研究室を訪れた。その学校は、地域との結びつきを大切にして、子どもたちを少人数のグループに分け、地域に買い物や散策に出すのを日課としている。彼がグループに同伴して歩いていたら、同年輩の子と母親らしい人に行き会い、その母親が自分の子の目を手で覆って、障害を持った子たちを見ないようにしたという。「日本では、まだノーマライゼーションが遅れていて」とため息をつく学生に共感して思ったのは、「早くメーンストリーミングを定着させねば」ということだった。 ノーマライゼーションは、障害を持った人をノーマル(正常)な環境におき、その人のアブノーマル(異常)なところをできるだけ修正しようという運動だった。だが、一九七五年ごろ、ノーマル・アブノーマルという考え方自体差別であると、ベトナム帰還兵たちが主張し、その結果障害を持つ人たちがノーマルになるのを目指すより、障害を持ったまま、どのように社会生活の主流(メーンストリーム)に参加するかが課題となった。その第一歩として、どんな障害を持った子どもでも、公的教育を受ける権利があるという親の声を反映して、『障害児教育法』が連邦議会を通過し、七八年から各州で実施された。 それから二十五年、今はどの教室に行っても、障害を持った子どもたちが、ほかの子どもたちに交ざって勉強している。学校だけでなく地域のどこにでも、障害を持った人が、グループとしてでなく、一人で参加している。例えば、今一番視聴率の高いテレビ連続ドラマでは、ダウン症のスターがユーモアあふれる演技を見せているし、スキー場では一本足のスキーヤーが、二本足のスキーヤーより、もっと上手に滑っていく。車いすに乗った人が、工場で他の工員と一緒に機械を修理している。 脳性まひを持つ精神保健センターの所長が、日本語なまりの英語をしゃべる私に、「私と同じように、変な英語をしゃべる“所長”に会えてうれしい」などとあいさつをする。もちろん、ここに来るまで雇用などで差別があった。だから『障害を持ったアメリカ人法』(九二年)が制定されねばならなかったのである。この法律のおかげで、さまざまなバリアーが取り除かれ、業務を遂行する技術と能力を持っている障害者を差別して、不採用にしないか監査する機関が市町村に整備された。今多くの障害者がアメリカ社会の主流に参加して、税金をもらう側から払う側に移り、堂々と生きている。 「済みません」を繰り返す日本の障害者に行き会うたび、私の胸が痛む。障害者が自己尊厳を持って生きられる社会。そこには過剰保護の代わりに、同等な扱いがあり、相互のいたわりがあり、生きるためのチャレンジとそれを乗り越える喜びがある。障害を持つ子どもや大人を隔離せず、教育、雇用、日常生活へのメーンストリーミングを企画する時が、今日本にもきているのである。 (上毛新聞 2002年3月13日掲載) |