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林業経営 新井 寛 さん(藤岡市上日野 )

【略歴】日本大学土木工学科卒。高崎市内の建設会社に9年間勤務した後、家業の林業を継ぐ。多野藤岡地区林研グループ連絡協議会会長、県林研グループ連絡協議会副会長などを歴任。


お山の杉の子

◎保護を求める厄介者

 寒さが和らぎ、ほおを伝わる風が幾分暖かく感じられてくると、肩膨れした衣装から徐々に解放され、山野に入り、動き回るのは気持ちの良いものである。

 作業する手に伝わってくる感触から、植物も春を感じ、動き始めたことが分かる。樹木の活動が盛んになってくると、花粉が飛び交う季節となる。

 今年は東京などは飛散量が多く、花粉症の人にとっては憂うつである。今後、手入れの行き届かない山林が増えるにつれ、花粉の量は倍増していくだろう。早急に間伐を実施し、健全な森林造りを進めていく必要がある。

 近所に、多くの山林を所有する会社の山林事業所がある。本社は東京だが、横浜で生糸商易で栄え、三渓園を創立した歴史の古い林業会社である。ここの山林から切り出される木材は品質が高く、ブランド品として名が通り、取引の範囲は広く業界一円に及んでいる。

 林業に熱心だった父は会社との親交が深く、共同で植林会社を興したり、早くから先進地より技術を導入し、共に優良材生産を目指し、撫育(ぶいく)に専念していった。

 やがて、父は独自に考案した枝打鎌(かま)と技法を持って、全国の林業地を講習して歩き、普及し広めていった。一方、会社は磨丸太生産に着手し、試行錯誤の末、本場に劣らぬ製品を完成させ経営を軌道に乗せていった。

 両者の築いた実績は重く、この地でも高級丸太生産が可能なことが実証され、林業関係者の大きな反響を呼んだ。

 山林に希望を託す人は多く、県内外から連日のように視察が訪れた。話に耳を傾け、熱心に聞き入る人々の前で、所長は「山(や)林(ま)なんざヨタ息子を持ったのとおんなじようなもんだ」と冗談を交えて説明した。

 そのころ、この地に再びゴルフ場造成計画が持ち上がり、会社は現状経営を続けるか、開発に委ねるか揺れていた。

 同時期、全国紙が開発によって失われていく山林の実態を取り上げ、特集「森は死ぬか」を組み連載していた。しばらくして、記者が訪れ取材していった。

 数日後、紙上に特集「山では食えない“渡りに船の選択”」と題し、所長談が載った。その中で、過去三十年間の労賃の上昇割合と、五十年たった杉の成木のそれを比較し、大きく開いた格差を指摘し、すべての作業を人手に頼る経営の困難さを訴えた。ちなみに格差は二〇対一・七である。

 結局、会社は後者を選択し、苗圃(びょうほ)と山林の1部が経営の中から削除された。経営を知りつくし、根っからの林業人である氏にとって、やむをえぬが苦汁に満ちた決断であった。

 あれから十七年たち、材価は当時の半分になった。今や所有者にとって、森林は持っているだけでコントロールの利かない、手に負えない荷物になってしまった。

 かつて、荒廃した国土の復興を担い、将来を嘱望され、唱歌になり愛されもてはやされた「お山の杉の子」は、成長したが国を支える力もない、いまだに保護を求める厄介者だ。


(上毛新聞 2002年3月12日掲載)