視点 オピニオン21 |
■raijinトップ ■上毛新聞ニュース |
|
|
◎歴史上の人物を誇ろう 箕郷町には国指定史跡・箕輪城跡がある。箕輪城は在原業平の子孫と言われる長野氏の城であったが、城主・長野業政が一五六一(永禄四)年に病死して後、武田信玄に攻められて落城した。最後の城主は井伊直政で、長野業政の亡くなった年に、静岡県の井伊谷(いいのや)で生まれた。そして一六○二(慶長七)年に亡くなり、今年は没後四百年となる。 話は変わるが、井伊谷の龍潭寺開山堂に文叔(ぶんしゅく)禅師の木像が安置されている。文叔禅師は源頼義・義家父子に討たれた陸奥の豪族、阿倍貞任の二男仙千代が長野県高森町まで逃れて松岡姓を名乗り、子孫が松岡城を築いた。文叔禅師はその城主の弟であるとされ、後ちに郷里に帰り松源寺を開山した。 井伊氏の先祖は今川譜代の家臣であったが、謀略があって今川義元に殺された。直政の親の直親は、難を避けて松源寺で十二年間すごし井伊谷に戻ったが、七年後に今川方によって殺されてしまった。直政が一歳の時のことである。直政は井伊家唯一の後継者となり、龍潭寺の南渓和尚らの苦心のはからいで、新野佐馬助、後ちに松下源太郎の手の下で育てられ、十五歳のとき、徳川家康にタカ狩りの際に見いだされ家臣となった。 一五八二(天正十)年、織田と武田の戦いの折、織田方に帰順した松岡貞利は、豊臣秀吉に臣従していなかった徳川家康との勢力争いに巻き込まれ、上田城攻めの出兵をめぐってお家断絶となり、身柄を直政に預けられた。 一五九○(天正十八)年、秀吉の天下統一の戦いは、北条方が名胡桃城を奪取したことを口実にした「小田原攻め」(一五九○年七月五日落城)の後、家康は早くも八月一日には関東入国を果たした。直政は徳川家家臣団の中で最高の石高を得て、箕輪城十二万石の城主となり、着任早々から直政好みの城として大改修に取り掛かったとみられる。 豊臣秀吉が一五九八(慶長三)年に亡くなり、直政は居城を箕輪から和田に移し、高崎城と名付けた。ここはかつて赤坂と呼ばれた地で、箕郷町和田山から鎌倉幕府の御家人・和田義盛の子、義信が和田城を築いた所である。 直政は一六○○(慶長五)年、関ケ原の戦いに加わり、その戦功で高崎城から石田三成の居城、近江佐和山十八万石に転封されたが、二年後に戦いの際の鉄砲傷がもとで没した。 その後、彦根城が築造され、井伊氏はそこに移るが、長男の直継は安中藩初代藩主となった。直政は一五九一(天正十九)年に下野国から白庵秀関大和尚を招き、龍門寺を開山。養父、松下源太郎家、縁の人たちの墓までつくっている。郷土史に登場する人物や事柄に誇りを持ち、関係地域の理解を持つことが、互いの親善と発展のために必要だと思う。 ▽参考資料 喜美候部千鶴子著『龍門寺四百年史』、木村昌之著『市田郷松田氏と井伊谷・彦根井伊氏』▽調査協力 龍門寺、箕郷町文化協会の西原厳氏 (上毛新聞 2002年2月4日掲載) |